「新・煙草の害について」(©アントン・チェーホフ)

Masculin:本日は世界禁煙デーだそうでございます。

Féminin:そう、私は生まれてこの方無縁ならぬ無煙ですけど、貴方も止めて久しいわね、まだ二十代だったでしょ。

M:えぇ、あれは’86年の春分の日でしたね。たまたまその日に逢っていた女性と禁煙の約束しちゃって。

F:…ふ~ん、そう言えばあんまり逢わなかった頃かしら。その間にちゃっかりおイタなさってたのね。

M:おイタって、あの頃はお姉様の方があの方と親密になってらしたんじゃないですか。その少し前に偶然お目にかかった時は「恩師なのよ、大学の」って紹介して下さったけど気がついたら…。

F:…それは誰かさんがいつまでも煮えきらない態度だったからでしょ?あの人もお家のことで悩んでて…やめましょ、そんな古い話は。あの人もとっくにいないんだし。

M:ハイハイ、でも考えてみたら禁煙して四十年近くですからねえ。吸ってた期間なんてたかだか十年ちょっとだったんだなあ。

F:あら、初めて出逢った高校生の頃にはもう吸ってたわよね。二十代のうちに止めたのに十年以上吸ってたなんて計算が合わないわ…まあ最近は妙にやかましいけどあの頃はお酒にも煙草にもおおらかだったし、世の中が。貴方の通ってたお坊ちゃま学校の同級生も大半が吸ってたんでしょ。また学園祭の打ち上げには誰かのお家で堂々と呑み会やってたりして。

M:そうでしたねぇ、だから初デートでもお姉様にキール・ロワイヤルを平気な顔でお勧めして。

F:考えてみたらウチの父もスモーカーだったけど、私が中学の頃に母が身体を悪くしたらすぐにピタッと止めて。あの人は最後の入院まで縁が切れなかったらしくて…お母様も昔は吸ってらしたんでしょ。

M:えぇ、僕が止めた前年に入院して手術を受け、それをきっかけにピタリと…まあもう還暦過ぎでしたけど。

F:一応みんな煙草の害に気づいてたのよね。その中で一番若い時に止めたのは貴方で…ねぇ、どうしてその時止めようと思ったのかしら。お逢いしてた方のせい?

M:いやぁ別にそういうわけでも…ほら今もある銀座一丁目ブラッスリーD.P.。あそこで一緒に食事していて手持ちの煙草が切れたんですよ。そしたら彼女が

 「ねぇ、私も日に5〜6本吸ってるんだけど止めようと思ってるの…一緒に止めません?」て。

F:へぇ、その一言ですぐに禁煙を決心したわけ…それまでに私が何かお願いしてもそんな即決なんてあったかしら。よっぽどその方にお熱だったのね。

M:そういうわけでも…実はその前日から家の買い置きも切れてたんでこの際だから止めようと思ってたんですよ。それで彼女と別れて帰宅したら夕方からの春の〽雨は夜更け過ぎに雪へと変わり朝までに10cm近く積もって、となると買いに行くのも億劫なんでそのまま。

F:ふ~ん、それじゃあ彼女のお願いじゃなく時ならぬ春の雪のおかげだったわけ。その後彼女とは?

M:何ですかそんな大昔の僕のささやかなアヴァンチュールを。第一その頃はさっきも言ったけどお姉様だってあの方と…で、結局ご一緒に暮らし始めて。

F:…そうね、蒸し返すのはやめましょ。でもそれでピタッと止められたのかしら。

M:いや実は翌々日だったかなぁ、何だか焦燥感に見舞われて近所のコンビニに走ったんです…ほら、「禁煙○イポ」って当時ヒットしてたのを買いに。

F:サラリーマン風の人がブルーのバックで順にそれを手に「私はこの禁煙パ○ポで煙草を止めました」「私もこのパイ○で…」って。で、三人目の人はピンクのバックで小指を立てて「私はコレで会社を辞めました」がオチで。ずいぶんヒットしたCMだったわね。

M:まああの会社も紆余曲折あったらしいけど、僕の方はそれのおかげもあってすんなり止められましたね。でも一週間くらいだったかなぁ、くわえてたのは。ただし夢の中で吸っててしまったと思い、目覚めてあぁオレ止めたんだよなってほっとするなんてことは数年続きましたね。

F:少し前に入退院を繰り返してお酒止めた時もだけど、アナタって離脱症状に苦しむなんてこともなくのほほんとやり過ごしちゃうのね…もっともお酒は元の木阿弥だけど。結局あの頃ワタシに執着しなかったのも同じだったのかしら…その前も後も永遠のマドンナだなんて言っておきながら。何によらず執着心が少ないていうか情熱の絶対温度が低いんじゃない?

M:何だか妙にからみますね、今日は…その後こうして付かず離れずのお互いにとって心地良い距離感で居続けてるんだから間違ってなかったんだと思いますよ、われわれふたりの来し方は。禁煙の話に戻すと、もともと自分が吸ってる頃から世のスモーカーの無作法には腹を立てていたんですよ。禁煙の場所での隠れ煙草や路上での歩き煙草に投げ棄てやら。

F:うん、そうね。吸ってた頃でもアナタはそういうことはしなかったし、お店なんかで同席した人には必ず「May I smoke?」って聞いてたわね。

M:だから禁煙の一番の理由はそういった連中と同列に見られたくないって気持ちだったかも知れないですね。また煙草の最大の問題点は健康への悪影響より、何と言ってもあの臭いにあると思うんですよ。

F:そうね、副流煙の方が長期的により身体に悪いのかどうかは知らないけど、あの臭いの方がさしあたっての問題ですものね。近くだと髪にも服にも容赦なく付くし、多分スモーカーの皆さんが考えてるよりもはるかに広く遠くまで不快な臭いは届いているんだから。

M:最近は香水なんかもスメハラって言われてるけど、香水よりもずっと煙のスモハラの被害範囲は大きいんだってことを理解してほしいものだなあ。まあ公共の場所にある喫煙スペースを阿片窟みたいだと嘆く向きもあるけど、致し方ないというか自ら招いた事態でしょうしね。

F:だけどずいぶん昔に吉田秀和先生が禁煙された時に「自分が完全に弱者の立場に転落したのを思い知った」って言ってらしたけど、その後徐々に勢力図が変わって貴方が止めた頃…昭和の終わり頃ね…がちょうど喫煙者と禁煙者の立場が入れ替わるその分岐点だったんじゃないかしら。また皆川達夫先生も「世の中に煙草のみほど他者への思いやりに欠ける人たちもいないと思われます」って。逆にその後は声高に嫌煙権を言い立てるような人たちも現れてそれもちょっと困りものだったけど。

M:まあそれも所詮煙草呑みの身から出た錆なんですよ。長年にわたり他人の迷惑をかえりみずに傍若無人な振る舞いのし放題だったんだから強く言われなきゃ分からないんで。

F:これも秀和先生が書いてらしたわ。「ビリティスの歌」の作者ピエール・ルイス

「いにしえのアテナイ人の知らず現代人の満喫している二つの愉しみは喫煙と小説の耽読」って言ったけど、来年が没後ちょうど百年のそのルイスの時代から一世紀以上経った今では他の愉しみがすっかり喫煙に取って代わりつつあるのも至極当然ね。

(Fin)