「福澤幸雄を覚えていますか?」

Masculin:…って、もちろん覚えておいでですよね。

Féminin:うん…あら、亡くなったのが今日?

M:えぇ、’69年だから55年前ですね。静岡県袋井のヤマハの新設コースで新型トヨタ7(セブン)のテスト中にコースアウトしクラッシュして還らぬ人に。まだ25歳の若さでした。まあ新型と言っても前年にデビューした3リッターV8マシンにキャノピーを付けただけのクローズドボディだったってことでしたけど、真相は藪の中で。

F:私はもう中3だったから同級生のコたちとその頃流行ってたグループサウンズの人達なんかよりよっぽど素敵ねぇなんて噂してたけど。でもそういった人達ほど一般的には知られてなかったし、貴方はまだ小学生でしょう。どうして知ってたの、サチオを。

M:いやぁご存知のように高校の頃には大ナマイキだったんですけど、小学生の頃からませてはいたんですよ。ほら幼稚園の時に雑誌のチャイルドモデルで晴海の全日本自動車ショウ(東京モーターショー)に連れて行かれ、真っ赤なホンダスポーツ500に乗せられ雑誌だけでなくTVニュースにも撮影されて以来、クルマ特にホンダのF1参戦なんかには興味しんしんでしたから。だからその後の日本グランプリでのTN(トヨタvs日産)対決なんかもずっと注目してたんで、そのトヨタのエースドライヴァーだった福澤幸雄にもおのずと関心が。

F:森永のアイスの広告ポスターとか売れっ子だったのね(笑)。お母様も良くおっしゃってたわ、あの人は小さい頃からお勉強はすごく出来たけどませてるだけでなくちょっと変わってたのよねって。でも今更だけどスゴいひとだったのよねぇ…あ、アナタのことじゃなく福澤幸雄ってひとはいろんな意味で。

M:…えぇ、どうせそうでしょうよ。まずその出自から福澤諭吉の直系の曾孫で母親はギリシャ人の声楽家ナチス傀儡ヴィシー政権下のパリで生を享け、戦後一家で帰国し中等部から大学まで慶應に学び、その後は男性ファッションのVANとJUNに続く第三勢力だったエドワーズの取締役兼デザイナーの傍ら彫りの深いルックスを活かして自身も多くのCM等でモデルとして活動し、さらにはレーサーとしてもトヨタのワークスチームのNo.1にまで登り詰めて…’70年代以降今に至るまでも、こんな存在はいなかったでしょう。

F:小さい頃にアイスとモーターショーのモデルをしただけくらいの誰かさんとは月とスッポンね(笑)。幾つもの要素を兼ね備え過ぎていて、今考えても恐ろしいくらいだわ。ほら、グループサウンズのSの皆さんとの交友やパリコレモデルのM.K.さんに歌手で女優のO.T.さんとのことでも騒がれて…あの事故直後のTVの生放送の歌番組で、Oさんが泣き崩れて唄えなくなったのも良く覚えてるわ。

M:あれは事故のどのくらい前だったのかなぁ、多分’68年の秋でしたけど小学校の帰りに目白通り飯田橋駅に向かって同級生数人と歩いてたら駅の方から地を這うようにやって来る白のトヨタ2000GTと遭遇して、全員足を止めて見やりました。

F:あら、彼が乗ってたの?

M:いや、車高の低い車だからドライヴァーの顔までは。ただ後で知ったんですけど当時トヨタワークスのメンバーは日常の足として全員会社からあてがわれたコロナベースの1600GTに乗ってたのが福澤だけが盗難に遭い、代車として会社から2000GTを借りていたんだと…雑誌にロードインプレッションも書いてましたし。それにワークスチームのオフィスは当時九段上靖国神社の向かいにあったトヨタ自販の本社内にあり、向かっていたのはまさにその方向で…。

F:ふ~ん、状況証拠としては十分ね。

M:まあ絶対数の極めて少ないクルマだし、ステアリングを握っていたのが彼であった蓋然性は高いでしょうね。

F:また食べものの話で笑うでしょうけど、彼の行きつけだったお店で今もある飯倉のCはあんまり私たち気に入らなかったわね。かなり前だけど何だかお店の方も有名人ずれしてるみたいで感じも良くなく、お料理の方ももっと昔はともかくその頃はイタリアン洋食って印象で時代からは取り残されてるみたいだったし…でも一周回って今では逆に新鮮なのかしらね。もう無い近くのビストロМの方がずっと印象深いわ。お料理はまずまずだったけど店名そのままにおヒゲのオーナーメートルがユニークな方で良くも悪くも昔のパリのビストロそのもので…まあ好き好きでしょうけどね。

M:没後すぐに刊行された「コースにかげろう燃えて」ってタイトルの追悼文集で、そのМのオーナーがしみじみ語ってましたね。福澤幸雄は外見から誤解されやすいけど驚くほど真面目で老成した考えの持ち主で、しかも当時では珍しくポリグロットで真の国際感覚を有していたと。だからあんなことがなければ将来どれほど素晴らしい大人の国際人になっただろうかと思うと残念でならないと。

F:確かにたらればは禁物だけど、ああいった奇禍に遭わなければってふと考える、その代表的な存在なのかしらね…。

(Fin)