吉行淳之介生誕100年。

Masculin:というわけで、今日は吉行淳之介氏の百回目の誕生日なんです。早いもので亡くなってからもちょうど三十年で。

Féminin:そうよね、「第三の新人」の皆さんは大正生まれで、ウチの父も同世代だったから…ねぇ、そもそも貴方はいつ頃から吉行さんの愛読者だったの?

M:ウ~ン、多分お姉様と知り合う少し前、高校に入った頃じゃなかったかなぁ。ほら内外の作家を手当たり次第に乱読していて、たまたま第三の新人諸氏に惹かれるものが。それも小説以上にエッセイで、同じようなことは僕と同世代の坪内祐三福田和也も書いてましたけど。

F:良かった、小説からじゃなかったのね、吉行さんの。

M:どういう意味かなぁ…でも大学の頃には当時講談社から出てた全集も買いましたし。ただしらけ世代だの三無主義などとつまらないレッテルを貼られてた我々に、第三の新人の作家の在り方が共感し得るものだったのは確かで。ほら第一次と第二次戦後派の作家には団塊世代が共鳴したんでしょうけど、我々はワンクッション置いてたから。お姉様こそ絵に描いたような箱入りのお嬢様だったのに、意外ですよね吉行ファンとは。

F:うん、でも私の行ってたそのお嬢様学校の同窓生には、案外吉行ファンがいたのよ。ファンレターも出すような。

M:あぁ、それはご本人も書いてましたね、女性の読者それも深窓の令嬢的なファンが多いって…まあとにかくモテるひとだったから、老若男女を問わず。15年ほど前に出たかつての「面白半分」の発行人佐藤嘉尚氏による評伝の題も「人を惚れさせる男 吉行淳之介伝」ですからね。

F:ご本人に遭遇したことはある?

M:えぇ、あれはスペースインベーダーの全盛期だったから’79年。夕方に銀座交詢社ビル1階のゲームセンターにいたら、すぐ隣でそのインベーダーゲームをやり始めた男性が。横目で見たら吉行氏でした…あっという間にゲームオーバーで姿を消して。パチンコ好きでは有名でらしたけど。

F:私もちょうど同じ頃、日比谷三井ビルにあったマハラジャってインド料理のお店で。カレーをせわしなくかきこんでらしたけど…帝国ホテルを仕事場にしてらしたから、あの辺は昼夜問わず縄張りでらしたのね(笑)。だけど下の妹さんでやはり作家・詩人の吉行理恵さんが「(淳之介さんの)妹と知られると色眼鏡で見られる」って意味のことを話してらしたけど、女性が愛読者だって公言するのも少し抵抗があったかしらね。

M:その頃に「夕暮まで」がベストセラーになって、だいぶ世間の受け止め方にも変化があったのかも。でも吉行氏は美人好みではないことでも有名だったから、仮にそこで遭遇しても歯牙にもかけられなかったでしょうね、お姉様は。

F:…何それ、今さらお世辞なんか結構でございますわ。でも吉行さんの終生の文学的テーマは男女の関係の機微の一言に尽きるんでしょうけど、私はそれ以上に研ぎ澄まされた文体と感覚に魅せられるんだけど。

M:それは僕も同じですね。だからむしろ梶井基次郎の流れを汲むような短編こそが吉行氏の真骨頂だったのかと。あとはやっぱりエッセイでしょうね。今どきの作家なんかがとても追いつけない芸の力ですよ。ほら、夕刊フジの名物企画だった百回連載エッセイ。吉行氏の「贋食物誌(連載時「すすめすすめ勝手にすすめ」)」に山口瞳「酒呑みの自己弁護」丸谷才一「男のポケット」と名作を生んだけど、今じゃ到底無理でしょうね。

F:でもとにかくモテるひとだったらしいけど、最初に籍を入れて娘さんをもうけた奥様とはずっと別居状態で、それからは宮城まり子さんと長く事実婚でらしたのよね。今の世の中じゃあ集中砲火でしょうけど、まあ良き時代だったのかしら。

M:まあ宮城まり子さんは吉行氏のミューズでもあったんでしょうし。ただしその後の「暗室」のモデルの女性やその他のひとが吉行氏の没後に暴露本まがいのものを書いたのは、時代の趨勢のはしりだったのかなぁ。

(承前)