今さらながらの筍の扱い方A to Z?

Masculin:というわけで、タイトルのままですけどご指南をば。

Féminin:あらずいぶんお見くびりですこと。これでも長年筍の下処理やお料理くらいはしてましたのよ。父が元気だった頃は毎年春になると京都の知り合いから朝掘りのが届いてたから。

M:それは失礼、わが家も全く同じでしたね、母の古い知り合いの方から。届くと何を置いても糠湯掻きにかかって…痛風が出て立ち上がるのも辛かったのにガンバったのはもう三十年以上昔で。荷が着かなくなったらもう自分はいないものと思ってくれとの伝言で、届かなくなってさて何年経つのか…やっぱり京都の知り合いって大事にしないと。秋には松茸に若狭のぐじとか。

F:うん、父も同じこと言ってたわ。その父もいなくなって、だからもう何年も自分で湯掻いたりもしてないし。

M:右に同じで。また都内で手に入る程度の筍じゃあどうしても京都の朝掘りになんかかなうはずもなくって。まあ毎年の習慣だったから忘れちゃいませんけど、ここはひとつ追憶も含めて…欲情をかき混ぜはしないけど。

F:…T.S.エリオット「荒地」ね。ちょうど「四月は残酷極まる月だ」し、お願いいたしますわ。

M:まず水洗いした筍の先端を斜めに切り落とし縦一文字に浅く切れ込みを入れ軽く拡げ、大鍋に入れてひたひたに水を張り米糠ひとつかみと鷹の爪一〜二本。まあ定法通りで。

F:それで落し蓋をして強火にかけ、煮立ったら火を落として吹きこぼれにご注意ね。一時間ほどで竹串を根元に刺してすんなり通ればそのまま完全に冷まして下処理は完了。やっぱり京都の筍だと決してえぐ味が残るなんてことはなかったもの。ある年に京都から届かなかったんで代わりに某県の筍を買って来て湯掻いたら歴然と違ったんで父も渋い顔だったわ。

M:僕もそれでわざわざ他県の筍を買う気がしなくなったんですよ。やっぱり京都の野菜の偉大さには脱帽ですねぇ、人間の底意地悪さとは好対照で。

F:あら、またぁ。ワタシの母は代々の京都育ちで、つまり私も半分は京おんななんだって言わなかったかしら?もっとも父はチャキチャキの江戸っ子だけど。

M:ウ~ン、だから昔っから天女のように優しいかと思うと時々魔女みたいに意地悪だったりもしたのかなぁ、わが永遠のマドンナのお姉様は…さて完全に冷めた筍は良く水洗いして糠を落とし、適宜切り分け姫皮まで無駄なく使いますけど基本的なレシピを幾つか。まず若竹煮ですけど、筍は穂先を食べやすい大きさに切り分けさっと湯掻いて糠臭さを抜きます。これも全てに共通の手順で、八方出汁に酒味醂薄口醤油で煮含めます。若布は塩蔵でも灰干しでもお好みで。土佐煮は紫勝(むらがち=醤油強め)かつ味醂も多めで仕上げに粉鰹をたっぷり。どちらも木の芽をケチらず天盛りに。

F:若竹煮をお椀の種にして吸い地を張れば若竹椀ね。鯛の子なんかあると本格だわ。

M:木の芽和えですけど、ものの本では烏賊を加えるとか青寄せ(ほうれん草などの色素)を加えるとありますけど、歯応えの変化に烏賊はともかく青寄せは色味は良くなるけど余計な味がつくからNG。かと言って木の芽だけで鮮やかな緑を出そうとすると過ぎたるはってことになるからほどほどで。根に近い部分をさいの目に切り、八方出汁で下煮して擂りたての木の芽と白玉味噌󠄀で和えます。もう一つ八丁味噌󠄀を使った味噌󠄀炊きで、根元の太いところを半月の薄切りにして、同じく薄切りの豚バラ肉と炒め一味を振り八方出汁と味醂に八丁で煮込みます。硬い部分の有効活用で。

F:筍御飯は?貴方は確か筍と良いお出汁だけで十分って言ってたけど、ウチの父はそれだけじゃあ物足りんよっていい年して駄々こねるんで、仕方なくお揚げを入れてたの…。

M:そうですねぇ、まああんまり色々加えると加薬御飯になっちゃうし、油揚げくらいはいいかなぁ。ひと手間で油抜きして両面パリッと焼き、開いて内側の白い部分をこそげ取って皮だけを極細切りにして筍と一緒に吸い地よりやや強めの加減の一番出汁で炊き込みます。炊き上がりに酒を振りかけ蒸らして下さい。よそって木の芽をあしらうのはお約束で。こそげ取った内側はネギと和え花かつおと七色を振りビールの合いの手に。

F:そうね、そうしてたら父も「おい、気が利いてるなぁ」って喜んだわ。孝行をしたい時には…ってことね。もう一つ姫皮の梅肉和えも添えたらもっとご機嫌だったわ、きっと…そうだ、もう一つ前にご馳走になった青豆御飯も教えて。確か数年前に亡くなった「京味」の西健一郎さん直伝だって。

M:えぇ、直伝と言っても人づてですけどさすがに最良の手立てですよ。まずグリーンピースは当然ながらさや入りで新鮮なものを。さやから出したらすぐに水に落とし、重曹耳かき一つ加えゆっくり加熱し、ぎりぎり沸騰する温度で指先で潰せるほど柔らかく茹でて火から下ろし、細く水を落として完全に冷まします…つまり急激な温度変化で表皮にシワが寄らないよう細心の注意を払うわけで。

F:最初から無造作にお豆を一緒に炊き込んだりしたら、そりゃあしわくちゃで色も褪せちゃうわね。おまけに芯も残ってたり。

M:豆の下茹でと同時に別鍋でさやを煮出して冷ました煮汁に出汁昆布一枚入れ軽く塩をして御飯を炊き、炊き上がりに豆を散らし酒を振りかけて蒸らします。これで豆は色鮮やかでかつ柔らかく、しかも豆の味が御飯全体に沁み渡ると。こちらはよそって切り胡麻を。

F:ありがとうございます、さすが西さんの秘技ね。一見素朴な青豆御飯にもそれだけの技巧をさり気なくめぐらせて。貴方のお母様は昔お出かけになったそうだけど私たちは間に合わなかったからせめて御飯を炊いて偲ぶことにしましょうね。

(承前)

 

冨田勲氏の誕生日に寄せて。

Féminin:今日は冨田勲さんのお誕生日、お元気なら満92歳で。

Masculin:亡くなったのはもう8年前なんですね。ほら、真っ先に思い出すのはあれもちょうど半世紀前の’74年、しばしば通った今も続くNET(現テレビ朝日)「題名のない音楽会」の公開録画で貴重な機会に遭遇して。

F:そうね、あの頃は隔週の水曜日だったかしら、旧渋谷公会堂で。公園通り側のエントランスのスロープに並んで開場を待ったわね。

M:夏休み中だったと思うけど、確かその日二本撮りのもう一本はいかにも黛敏郎氏らしく「『君が代』考」だったなぁ。で、もう一本が冨田氏をゲストに招いたモーグシンセサイザーの紹介とお披露目で。

F:その頃までにもうTVやCMではモーグを使ってらしたけど、ドビュッシーピアノ曲モーグで演奏した最初のアルバムの発売に合わせた企画だったのね。でも未だに情けなくなるわ。それより前に冨田さんが企画とデモテープを持ち込んだら国内のレコード会社はどこもけんもほろろだったって。

M:そうそう、中には「レコード店のどのコーナーに置くのか」なんて世迷い言を放った社もあったとか。まあ日本のレコード会社なんてのは邦楽に洋楽やらクラシックにポピュラーなどなど各部署ごとにケチくさい縄張り争いばっかりしてたんでしょうね…音楽文化の発展だなんて全く眼中にもない他人事で。それで冨田氏が直接米RCAにコンタクト取ったら「OK、ウチで出そう」とトントン拍子にリリースが決まりやがてグラミー賞ノミネートまで。でも我々も幸運でしたね、冨田氏の歴史的名作のいわばプレミアに立ち会えたわけだから。

F:本当にね。それで黛さんが聞き手で冨田さんがモーグの様々な機能を紹介した最後に4チャンネルシステムで「月の光」を演奏して、客席の私たちはすっかり夢見心地になってたら黛さんと冨田さんが何やらステージ上でヒソヒソ…。

M:そうそう、そしたら黛氏がやおら立ち上がり

「ちょっと止めて、これ1チャンネル音が出てない!」と叫んでいっぺんに夢から醒めて。ディレクターが現れ、すぐに修復は無理でオンエア時は直しますとの話でもう一度冒頭からアンコールでお開きだったけど、でも当時はまだ音声多重放送も始まってなかったからさてどうだったか。まあ我々はすぐにLPを買いましたけどね。

F:その後の冨田さんのシンセサイザーアーティストとしての活躍は今さらだけど、最初に聴いた作曲作品は?

M:やっぱり大河ドラマ第一回の「花の生涯」でしょうね。当時小1だったけど、祖母や母に付き合って毎週観てたから。

F:そんな頃からませてたのね…私は「きょうの料理」かしら、やっぱり。一応母のお手伝いをしておりましたから…言われる前に認めますけど、そんな頃からキッチンに立ってたわりにお料理の腕が上達しなかったのは母が早くに旅立ったからなのよ。

M:ハイハイ、十分承知しておりまする…その後はフジテレビ「ジャングル大帝」「リボンの騎士」の虫プロ作品だけど、あれは今聴いてもライトモティーフを効果的に使って大河ドラマ以上に本格的な仕事でしたね。その頃には同じく虫プロ制作の実験アニメ「展覧会の絵」もあるけど、ちょっとしたエピソードが。

F:うん、確か最初は秋山和慶さん指揮の東京交響楽団ラヴェル編曲版生演奏付きで上映し、その音源をサントラにして海外のアニメフェスに持って行こうとしたら横槍が入ったとか。

M:えぇ、編曲のラヴェルの版権を持ってるフランスの楽譜出版社デュランから、そういう用途はまかりならぬと。日程もなく困り果てた手塚治虫氏は急遽冨田氏に新たな編曲を依頼したんですけど期限は手塚氏によれば一週間、冨田氏によるとわずか4日だったと…。

F:それはきっと依頼された側の記憶の方が正確ねぇ。でも間に合わせたんだから凄いわ。いま聴いても後の冨田さんのシンセサイザー版の素描みたいで良いお仕事と思うけど。

M:’72〜3年になるとTVドラマでもモーグを使い始め、TBSで’72年7月スタートの二世中村吉右衛門主演「いま炎のとき」が最初だったかと。あと日テレの若山富三郎主演の時代劇「唖侍鬼一法眼」も印象的でしたね。

F:WikipediaではTVドラマの初モーグは’73年春のNHK「波の塔」となってるけど、ここはアナタの記憶を信じることにしましょ。私は’74年の大河ドラマ勝海舟」のテーマ曲が好き。あえてモーグは使ってないけどジャジーなオープニングのピアノとドラムスからコーラスまで多彩で、コーダに残るチェロのソロが得も言われぬ哀感を醸し出してるわ。

M:もしかしたらあのテーマ曲のコーラス部分はモーグで作ったんじゃないかなぁ。タイトルにも岩城宏之指揮N響だけで合唱団の名はクレジットされてませんしね。

F:もう、ハイハイ分かりました、おっしゃる通りでございます。そう言えばかなり前、NHKの「ラジオ深夜便」聴いて何か呆れてたんじゃなかった?

M:あぁ、そうそう。安田祥子由紀さおり姉妹の特集で紹介した童謡が冨田氏の作品だったんです。そうしたらS.K.さんて元女性アナのアンカーが

「冨田さんてシンセサイザーで有名ですが、こういう曲も書いてらしたんですねぇ」ですって。長年NHKにいる方が大河ドラマや「新日本紀行」などでNHK御用達とも言える冨田氏の業績をろくに知らんのかと苦笑を禁じ得なかったんですよ。

F:ウ~ンそれはちょっとねぇ。担当してらした番組が「趣味の園芸」なんかで冨田さんとの接点があんまり無かったのかしら。

(承前)

 

「サザエさん」とさつまいもの天ぷらの思い出。

Masculin:前におっしゃってたでしょう、小学生の頃に学校の遠足でお芋掘りに出かけたって。

Féminin:うん、そうだったわ。確か四年か五年の時だったけど、一応カトリックのお嬢様学校でもそんな行事があったのよね…埼玉のどこかだったけど。それで不思議なことに一人ずつ分けられた区画で小柄な娘には沢山お芋が当たって大柄な娘は少なかったなんて皮肉な結果にね。帰り道なんか気の毒だったわ、小さな娘は。小さい身体でリュック一杯に背負って。私は身体の割に少なかったけどそれでも7〜8キロくらいでかなりこたえたわ。

M:不満たらたらで帰途についたんでしょうねぇ足弱のお姉様は…でも食欲が上回ったのか。それで思い出したんですけど、大昔の「サザエさん」のエピソードでまず一コマ目で帰宅してネクタイを緩めてるマスオさんが夕食の献立を聞きムッとして

「何、イモのてんぷら?」

 次のコマで同じく着替え中の波平さんも

「ワシは食わんぞ!」 

すると3コマ目でその一部始終をずっと見ていたワカメちゃんがウワッと泣き出し、最後のコマで

「ふ~ん、ワカメちゃんお芋掘りに行って来たの」

「うん、美味しい美味しい」

とみんなでなだめすかしながら芋の天ぷらを頬張るって…。

F:うん、覚えてるわそれ。ちょうど同じ頃にそのリュック一杯のお芋を持ち帰ったのね私も。でもわが家では天ぷらやら煮物やら蒸かしたりで、別に誰も文句言うでもなく片付けたわよ。だから磯野家の皆さんにどうして不評なのか良く分からなかったわ。特に戦中派で芋や南瓜は若い頃に一生分食べたからなぁって口癖みたいに話してた父もそれこそワカメちゃんに気づかずムッとした波平さんみたいなこともなく…あぁ、そういうことだったのかしら。

M:ほらね、今頃気づきました?一人娘がはるばる持ち帰ったお芋だから不満をおくびにも出さずに美味しいって召し上がって下さったんですよお父様は。いや涙ぐましい親心だなぁ、それをこれっぱっちも斟酌せずに自分の食い意地ばっかり。

F:ちょっと、何?アナタみたいな○○○○に言われたくないわねぇ…。

M:おや聞き捨てならないなぁ、その四文字には何が入るんです?

F:さぁなんでしょうね、あらん限りの罵詈雑言を当てはめてご覧あそばせ…でも確かに普段の食事で自分からさつまいもって積極的には食べたがらなかったわねウチの父は。貴方もあんまり好きじゃないでしょ。

M:まあ大人になってからはね。小さい頃にはそれなりに好きだったんですよ。あれはその「サザエさん」と同じ頃、神田猿楽町のT政に法事で出かけ、名人と謳われた主人にまさにそのさつまいもの天ぷらをリクエストして笑われましたからね。当時はかなりの偏食で、海老と烏賊くらいしか食べなかったんで。その海老だって街の洋食屋の海老フライはNGだったから。

F:あら、小さい子ってだいたい海老フライが好きじゃない?

M:いや、海老の独特な匂いが苦手だったんですよ。ところがT政で出された活けの才巻海老はそんな匂いもなく美味しいと平気で食べて。結局あの頃の海老フライは未だ技術の未熟な冷凍海老だったろうから、アンモニア臭が子どもの敏感な嗅覚には耐えられなかったんでしょうね。

F:ふ~ん、お母様があの人は小さい頃から妙に神経質だったのよっておっしゃってたけどやっぱりねぇ…でも最近じゃあ銀座のK藤の分厚いさつまいもの天ぷらなんかわざわざそれを目当てに訪れるお客様も少なくないらしいけど、そんな昔じゃあナマイキなお子様くらいよね。だいたい天ぷらって言えば海老や鱚に穴子なんかの江戸前の魚介類のことで、お野菜は精進揚げって名前から区別してたんだし。でもお母様はお好きだったんでしょ、さつまいも。

M:そうでしたねぇ、芋たこなんきんじゃないけど。特にさつまいもと南瓜は戦時中にさんざん食べたろうに好きで。やっぱり男女差なんでしょうね。だからたまには食卓に出しましたけど。

F:アナタのことだからまた何か手の込んだものをお出ししたんじゃない?

M:いやあんまり手の加えようのない食材でしょ、さつまいもって。だから細い鳴門金時を八方出汁と味醂でさっと炊いたりするぐらいで。スイートポテトも作ったけど丁寧に裏漉しして生クリームを多目に使ったら、もっと素朴な方が良いわってご託宣で。

F:そう言えば昔、霞町…今の西麻布の坂の途中にランペルマイエ和泉屋ってあったわね。あそこのスイートポテトなんかそのお母様好みだったんじゃない。皮を器代わりにしてしっかり焼き目を付けた。

M:そうそう、時々思い出してましたね。あとはドンク系列の松蔵ポテトも。

F:結局さつまいもって妙に手を加え過ぎずに素朴なお料理が一番なのね…。

(Fin)

 

ヘンリー・マンシーニ生誕100年〜「ムーン・リヴァー」のほとりから。

Féminin:今日はヘンリー・マンシーニのお誕生日ね、3日前の吉行淳之介さんと同じく100年で亡くなってからも30年で。

Masculin:そう、でやっぱり真っ先に語られるのは何と言っても「ムーン・リヴァー」ですね。マンシーニにとっても名刺代わりとでも。

F:誰かさんは中学生の頃、原曲のジョニー・マーサーの歌詞を一所懸命に憶えたのよね(笑)。

M:えぇ、おかげさまで今でも全部そらで歌えますよ、"Moon river, wider than a mile, I'm crossin' you in style some day…"と、アンディ・ウィリアムスと同じキーでね。でもマンシーニは’50年代からスタジオミュージシャンB級映画の作曲家として活躍を始めていたけど、やっぱりブレイク・エドワーズと出逢ったのが共にステップアップするきっかけだったようですね。

F:ほら、スタンダードナンバーになってる「ピーター・ガン」のテーマって、エドワーズとマンシーニが最初に組んだ仕事なのね。エミー賞グラミー賞も受けて。

M:劇場用の本編でもその後の「ペティコート作戦」を皮切りにエドワーズの監督作品のほとんどを担当したんだから、スティーヴン・スピルバーグジョン・ウィリアムズに並ぶ名コンビですね。特にその「ムーン・リヴァー」でアカデミー賞を受けた「ティファニーで朝食を」の成功が決定的で。

F:ねぇ、監督と作曲家ってその二組みたいに切っても切れない名コンビがある一方で、プロデューサーからのあてがい扶持なのかいろんな作曲家と組んでる監督もいるでしょ。あれはどうなのかしら…。

M:良い質問ですねぇ、確かにデイヴィッド・リーンとモーリス・ジャールルキーノ・ヴィスコンティ及びフェデリコ・フェリーニニーノ・ロータのようなコンビの一方で、アルフレッド・ヒッチコックウィリアム・ワイラーのようにいろんな作曲家と組んでる例も。そこで思い出すのがそれら巨匠の大半と組んだモーリス・ジャールが昔語ってたエピソードで。

F:何て言ってたの、ジャールは。

M:まずリーンとヴィスコンティについては監督としての力量は勿論、音楽に対する見識も絶賛でした。一方ヒッチコックはあまり音楽的なセンスが無く、ほぼ作曲家に丸投げだったそうなんです。だから「引き裂かれたカーテン」で長年組んだバーナード・ハーマンとケンカ別れしてからは精彩を欠いたというのが僕の見立てで。またワイラーは作曲家としては特にやり難いひとだったと。

F:どういう点が?

M:まず一曲新しいナンバーを書いてピアノで弾くと

「うん、結構だ。もう一曲書いてくれ」また書いて弾き聴かせると

「うん、それも結構、だけどもう一曲」の繰り返しで、キリもなければ手応えもなしだったんですって。「コレクター」の主演女優サマンサ・エッガーも撮影現場でワイラーが同様に

「カット!もう一度」の連続で、具体的なことをまるで言ってくれないとジャールに愚痴をこぼしたそうで、有名な「90テイク・ワイラー」は作曲家に対しても同じだったと。

F:ウ~ン、確かにそれじゃあ仕事もし難いし張り合いもないわよね。演出のスタイルはワイラーを尊敬していた小津安二郎監督と同じだわ…でも現場での俳優に対する演技付けならまだしも作曲家に対してはちょっと。

M:話を戻すとマンシーニが来日時のインタビューで、映画音楽としての会心作は「雨の中の兵隊」と「いつも2人で」だって断言していたんですよ。

F:「いつも〜」は時系列を自由に行き来する脚本も演出も当時としては新鮮でお洒落だし、アナタの永遠の憧れオードリー・ヘプバーンももちろん素敵だし、マンシーニの音楽も確かに自信作なんだって納得させられるわね。脚本を読んで気に入ったオードリー直々にマンシーニにオファーしたんですって?

M:えぇ、同じ20世紀フォックスで撮ったオードリーの前作「おしゃれ泥棒」もマンシーニにオファーがあったんですけど多忙で断り、代わりに請けたマンシーニのアシスタントだったジョン・ウィリアムズが良い仕事をしたんでマンシーニも気合が入ってたんでしょう。結果あの通りで。「雨の中の〜」はスティーヴ・マックィーンとしては珍しい軍隊コメディだけど…。

F:二人ともきちんと観てないから語る資格がないわね。でもやっぱり全盛期は’60年代で’70年代になると「ピンク・パンサー」シリーズ以外あんまり…。

M:’80年代でも「スペースバンパイア」なんか、もともとの作風も内容と合わなかったのかもだけど楽想の枯渇のようにも…。

F:そう言えばやっぱり来日時に「ムーン・リヴァー」について

「沢山の素晴らしい歌手が歌ってくれたが、私がベストと思うのは作中のオードリーだよ。決して上手くはなかったが、あれほど真情の溢れる歌唱は他の誰にも無かったね」って言ってたんですってね。あの窓辺で髪を乾かしギターを爪弾きながら歌うシーン…アナタも同感なんでしょ?

M:言わずもがなですよ。’78年にフジテレビで初オンエアされた時は未だVTRがわが家に無かったんで、オープンリールのデッキで録音しましたからね。

(承前)

吉行淳之介生誕100年。

Masculin:というわけで、今日は吉行淳之介氏の百回目の誕生日なんです。早いもので亡くなってからもちょうど三十年で。

Féminin:そうよね、「第三の新人」の皆さんは大正生まれで、ウチの父も同世代だったから…ねぇ、そもそも貴方はいつ頃から吉行さんの愛読者だったの?

M:ウ~ン、多分お姉様と知り合う少し前、高校に入った頃じゃなかったかなぁ。ほら内外の作家を手当たり次第に乱読していて、たまたま第三の新人諸氏に惹かれるものが。それも小説以上にエッセイで、同じようなことは僕と同世代の坪内祐三福田和也も書いてましたけど。

F:良かった、小説からじゃなかったのね、吉行さんの。

M:どういう意味かなぁ…でも大学の頃には当時講談社から出てた全集も買いましたし。ただしらけ世代だの三無主義などとつまらないレッテルを貼られてた我々に、第三の新人の作家の在り方が共感し得るものだったのは確かで。ほら第一次と第二次戦後派の作家には団塊世代が共鳴したんでしょうけど、我々はワンクッション置いてたから。お姉様こそ絵に描いたような箱入りのお嬢様だったのに、意外ですよね吉行ファンとは。

F:うん、でも私の行ってたそのお嬢様学校の同窓生には、案外吉行ファンがいたのよ。ファンレターも出すような。

M:あぁ、それはご本人も書いてましたね、女性の読者それも深窓の令嬢的なファンが多いって…まあとにかくモテるひとだったから、老若男女を問わず。15年ほど前に出たかつての「面白半分」の発行人佐藤嘉尚氏による評伝の題も「人を惚れさせる男 吉行淳之介伝」ですからね。

F:ご本人に遭遇したことはある?

M:えぇ、あれはスペースインベーダーの全盛期だったから’79年。夕方に銀座交詢社ビル1階のゲームセンターにいたら、すぐ隣でそのインベーダーゲームをやり始めた男性が。横目で見たら吉行氏でした…あっという間にゲームオーバーで姿を消して。パチンコ好きでは有名でらしたけど。

F:私もちょうど同じ頃、日比谷三井ビルにあったマハラジャってインド料理のお店で。カレーをせわしなくかきこんでらしたけど…帝国ホテルを仕事場にしてらしたから、あの辺は昼夜問わず縄張りでらしたのね(笑)。だけど下の妹さんでやはり作家・詩人の吉行理恵さんが「(淳之介さんの)妹と知られると色眼鏡で見られる」って意味のことを話してらしたけど、女性が愛読者だって公言するのも少し抵抗があったかしらね。

M:その頃に「夕暮まで」がベストセラーになって、だいぶ世間の受け止め方にも変化があったのかも。でも吉行氏は美人好みではないことでも有名だったから、仮にそこで遭遇しても歯牙にもかけられなかったでしょうね、お姉様は。

F:…何それ、今さらお世辞なんか結構でございますわ。でも吉行さんの終生の文学的テーマは男女の関係の機微の一言に尽きるんでしょうけど、私はそれ以上に研ぎ澄まされた文体と感覚に魅せられるんだけど。

M:それは僕も同じですね。だからむしろ梶井基次郎の流れを汲むような短編こそが吉行氏の真骨頂だったのかと。あとはやっぱりエッセイでしょうね。今どきの作家なんかがとても追いつけない芸の力ですよ。ほら、夕刊フジの名物企画だった百回連載エッセイ。吉行氏の「贋食物誌(連載時「すすめすすめ勝手にすすめ」)」に山口瞳「酒呑みの自己弁護」丸谷才一「男のポケット」と名作を生んだけど、今じゃ到底無理でしょうね。

F:でもとにかくモテるひとだったらしいけど、最初に籍を入れて娘さんをもうけた奥様とはずっと別居状態で、それからは宮城まり子さんと長く事実婚でらしたのよね。今の世の中じゃあ集中砲火でしょうけど、まあ良き時代だったのかしら。

M:まあ宮城まり子さんは吉行氏のミューズでもあったんでしょうし。ただしその後の「暗室」のモデルの女性やその他のひとが吉行氏の没後に暴露本まがいのものを書いたのは、時代の趨勢のはしりだったのかなぁ。

(承前)

 

「消防士の男」の名が判るまで「誰も寝てはならぬ」?

Féminin:…なあに、珍しく大笑いして。

Masculin:いや、TVのニュース観てたらあんまり可笑しくって…「東京消防庁の24歳消防士の男を警視庁が逮捕 職場の飲み会後に飲酒運転し自転車の男性をひき逃げか」と見出しがあったんですけど、送検される本人の映像に「消防士の男(24)」てテロップが。

F:何それ、容疑者の姿を映しといて名前は出さないの?妙な報道ねぇ、逆に名前を公表して姿は見せない方が普通だけど…。

M:しかも日テレ、TBS、フジと全て同じ扱いなんですよ。消防庁が名前を発表しなかったんでしょうけど見事な横並びで。まあ消防士だから武士の情けってわけでもないけど、まだ若く将来のある身だから名前は…なんて当局から申し入れがあったのかも。

F:でもしっかり顔はオンエアされちゃったんでしょ?だったら知り合いにはバレバレだし、実家のご近所からもお宅の息子さんよねアレなんて無遠慮に訊かれるでしょうし、名前だけを伏せた理由がおよそ判らないわね。そもそも容疑者段階で推定無罪だからって理由なら、全ての容疑者はその姿も実名も報道するべきじゃないわよね。

M:まあちょっとした謎事件ですね。でも起訴されれば重い処分は免れないでしょうし、職場の飲み会後にしでかした事故だから仮に同席していた上司や同僚もクルマで帰宅することを見て見ぬふりしていたとすれば、下手すりゃ飲酒運転幇助で累が及びますしね。

F:だったらなおのこと姿を撮らせて名前を伏せる理由が不明じゃないかしら。しかも三局横一線で。「今宵あの者の名が判るまで、誰も寝てはならぬ」なんてね。

M:トゥーランドット姫のお出ましですね。もしかしたら「ケシボウ・シノオ」さんなんですかねぇ(笑)。

(Fin)

「パリで一緒に」(’63年米)〜シズル感がいささか足りませぬ…。

Masculin:「リメイク」について…なんて大げさですけど。

Féminin:…って、これはジュリアン・デュヴィヴィエアンリエットの巴里祭」(’52年仏)のリメイクよね。まあフランス映画のハリウッドリメイクって沢山あるけど…。

M:…けどって、何か保留条件付きみたいですね。確かに成功したとは言い難いのが大半で…「恐怖の報酬」「勝手にしやがれ」「赤ちゃんに乾杯!」「最強のふたり」等々。残念ながら手間とコストをかければ上手く行くとは。

F:何だかどれもブレス鶏のロティ(ロースト)をケン○ッキーフライドチキンに仕立て直したみたいよね…それともタルト・タタンをパイシートで包んでアップルパイに文字通り焼き直したとか。また食いしん坊って笑われちゃいますけど。

M:えぇ、百も承知ですから。でもかなり昔、僕が牛スネ肉と野菜をじっくり煮込んだポトフーをご馳走した翌日、残りのスープで一から調合したスパイスと自家製のルーを伸ばしたビーフカレーもお気に召しましたでしょ?

F:うん、あれはポトフーもだったけどとっても美味しかったわ。だからやっぱりリメイクって難しいのね。でも黒澤明「用心棒」をマカロニ・ウエスタンでリメイクしたセルジオ・レオーネ「荒野の用心棒」やハリウッドでも「七人の侍」のジョン・スタージェス「荒野の七人」は悪くないんじゃない?まあお刺身をカルパッチョカリフォルニアロールにしたようなものかもだけど。

M:確かにね。だから映画同様に日本料理はあくまで素材としてリメイクするのに向いてるけど、フランス料理はそのエスプリごとリメイクするには不向きってことかなぁ…前置きが長くなりましたけど、これを最初にご覧になったのは?

F:…確か’72年の夏、リヴァイヴァルのロードショーだったわ。大学に上がった年にボーイフレンドと…映画の後は銀座みゆき通りのキャンドルで一緒にチキンバスケット食べて確か地下鉄の駅でお別れしてそれっきりで名前も顔も覚えてないわ。貴方は?

M:…気の毒だなぁ、そのBFも。高い競争率かいくぐってようやくデートにこぎつけたってのに、お姉様の財布代わりであっさりポイとはチキンの骨同然のあしらいで…えぇ、僕も同じく丸の内ピカデリーでしたね。ほらその前年にやっぱりリヴァイヴァルで「おしゃれ泥棒」を観てオードリーのとりこになり、名画座で「ローマの休日」「ティファニーで朝食を」「シャレード」「いつも2人で」と追っかけた後だから。

F:前にも言ってたけど「ぴあ」なんかの情報誌も無い頃、新聞の映画演劇欄を見て名画座巡りをしたんでしょ。大した情熱ですこと。でも分かるわ。私も小学生の時、両親と一緒に「マイ・フェア・レディ」をロードショーで観て、何て素敵なひとなんでしょうって思ったもの。

M:そうでしょう、だからお分かりでしょ、まだお姉様と出逢う前の僕がたちどころにオードリーのとりこになったのは。

F:ふ~ん、でもその翌年くらいよね。初対面の年上の私に熱烈にアプローチしてきたのは…たまたま立ち寄ったアナタの高校の学園祭で…まあそれから長いこと、お互いに山あり谷ありで未だにこんなお付き合いになってるのもビックリですけど。

M:まあそれはともかく、正直なところオードリーの主演作としても、これはせいぜい中の下ってとこですね。

F:あらずいぶん厳しめね…まあ仕方ないかしら。特にパリを舞台にした他の「パリの恋人」「シャレード」「おしゃれ泥棒」に比べるとね。フランス人に比べてもオードリーほどパリの似合う女優さんはいなかったけど、これは内容も少し散漫だからかしら…大人のおとぎ話としては悪くないんでしょうけど。

M:まあオードリーの主演作品って、多かれ少なかれ大人のおとぎ話ですからね…極めて良質な。他はスタンリー・ドーネンが二作にウィリアム・ワイラーですけど、やっぱりどちらもオードリーの魅力を知り尽くした名匠ですよね。これのリチャード・クワインキム・ノヴァクとの「逢う時はいつも他人」や「媚薬」なんかは良い出来だったけど、これはメタフィクション的な脚本のあえて言うなら散漫さにも足を引っ張られた感が。あとパリの風情を捉える手腕においてもワイラーやドーネンには到底及ぶべくもなかったと。

F:仕掛けは多彩なのに肝心な点が不足ね。ウィリアム・ホールデンはオードリーと主演級で二度共演したただ一人の俳優だけど、「麗しのサブリナ」より渋さが加わって悪くないのにトニー・カーティス以下カメオ出演ばかり多彩で味のある脇役が少ないし、音楽も他のパリを舞台にしたオードリー作品のガーシュウィンヘンリー・マンシーニジョン・ウィリアムズと比べるまでもないわ。

M:これと「シャレード」は続けざまにパリで撮られたんで、両方に起用されたキャメラのチャールズ・ラングはさすがにオードリーの魅力を知り尽くしてますけどね。その間オードリーは存分にパリでの暮らしを愉しんだそうですけど、これについては残念ながら作品の出来に結びつかなかったのかなぁ。

F:原題は"Paris When it Sizzles(焼けつきそうなパリ)"だけど、作品としては残念ながら"Paris When it Freezes(凍りつきそうなパリ)"だったのかしらね…。

(Fin)