アントン・ブルックナーと種田山頭火の命日に。

Féminin:あら、なあに。このお二方の命日が一緒なの?

Masculin:えぇ、僕も偶然気付いたんですけど。まあ型式も長大な交響曲作家と定型をさらに切り詰めた自由律俳人と、実に対照的な存在ではありますね。でも今まで誰ひとりとしてこんなユニークな指摘はしてないんじゃないかなあ。

Féminin:ハイハイ、それに終生音楽院教授やカトリック修道院オルガニストとしても活動していたブルックナーと、終生曹洞宗の僧侶でいながら全国を漂泊に近かった山頭火ではずいぶん違うと思うけど。それまでも家庭的にも恵まれず腰が座らなかったのに四十を過ぎてから熊本で得度し、今度は雲水姿で漂泊するわけですものね…もっともブルックナーは生涯独身ね。まあお二人ともいかにももっさりなさってらしたから女性とは縁薄かったのかなあだなんて。

M:ほらそういうのをルッキズムって言うんですよ。まあ小さな頃から蝶よ花よで育てられ、長い天使の時代を経て今や奇跡の美魔女にたどり着いたお姉様にはお分かりにならんのでしょうなあ…でもお詳しいですね。ブルックナーは一時期あの方とボクでだいぶお教えしたからまだしも、あんまり話題にした覚えもなかった山頭火については。

F:ふふっ、実はかなり前に身近でろくに働きもせずにお酒ばっかり呑んでるひとがいるからもしや似たような…って気になってたのよ。まああんなもっさりもしてないしお互い十代からのお付き合いで年下でもそれなりに素敵だとは思ってんだけど、出家するなんて言ってもなかったし。いつも身ぎれいにしていて呑んでも周りに迷惑かけるようなことはほとんどなかったからまさかとはね。

M:…なんだかだなぁ、見込み違いの最たるものだと良くも悪くも…毎年きちんと自分で確定申告だって済ませていたのに。何者だと思ってたんですか不肖このワタクシのことを?

F:ふふっ、ゴメンナサイ、いつもの冗談よ。それはともかく二〜三年前に「孤独の俳句〜山頭火と放哉 名句110選」(又吉直樹金子兜太小学館新書)って読んだわ。あなたは昔から知ってたのよね。

M:そうですねえ、あとはやっぱり丸谷才一氏の「横しぐれ」だなぁ。刊行後すぐに読んだけど圧倒されましたね。それこそ山頭火の句がブルックナーの作品へと変容を遂げるようで…お貸ししたでしょ。

F:うん、私もまだ大学生だったけど感心したわ。実は大学入ってすぐに父が発売されたばかりの「たった一人の反乱」を買ってくれたのね。あれも面白かったけど…だから丸谷さんの代表的な長編と中編を続けて読めたの。特に「横しぐれ」は傑作ね。ところでお酒は山頭火はもっぱら人様にたかってるんだから日本酒たまにビールくらいだったんでしょうけど、ブルックナーはどうなの。修道院のお部屋にこもってばかりだったんじゃ。 

M:いやそれが実はかなりのビール好きだったんですって。だからしばしば街の居酒屋へも…そこであのブラームスとの一触即発のエピソードも生まれたんでしょう。主に暮らしたウィーンもリンツもビールの名産地ですしね。晩年に著しく健康を害したのはどうやらそのビール好きのせいではないかとも。

F:ほら、一昨年の秋のお彼岸の頃に、「横しぐれ」を読み返してて    「なかなか死ねない 彼岸花さく」って句に出会って繰り返しの入退院以来二年ぶりの禁酒を解いたって言ってたわね…ほんっとに自分勝手なんだから。その後はどうなの。肝臓はすっかりリフレッシュしたけど心臓がもうボロボロだって…またすっかり足が弱ってらっしゃるのは承知だけど。 

M:昨秋は別のところでそれと対になる

 「いつまで生きる 曼珠沙華咲き出した」てのも見出しました…もう情けない有り様ですよ。近所に買い物に出かけるにも30いや15メートルごとに手をついて息を整えてるんですからねぇ。

F:…それはそうと一体山頭火ブルックナーになぞらえようだなんて普通じゃあ到底思いつきそうにないわ…時々おかしなこと思いつくんだから昔っから。どの曲のどの楽章から。 

M:ほら、山頭火の全句でも取り分け知られた

 「(おと)音はしぐれか」がふとブルックナーの弦楽五重奏曲の第2楽章スケルツォの出だしに極めて似通ってるように思えたんですよ。歩き出そうとしたら雨音に気づき歩みを緩めまた速めようとするみたいで…山頭火芭蕉を引き合いに出して自分も同様に聴覚型の俳人と言っていて。

F:ふ~ん、弦楽五重奏曲ってまだブルックナーにあんまり馴染みの少なかった頃にアナタから聴かされたわねLPで…アマデウス弦楽四重奏団とトランプラー(DG)だったかしら。あの人と暮らしてた頃にはウィーン弦楽五重奏団(デッカ)のCDでも。長さもほどほどだし、交響曲よりもむしろすんなり入り込める気がしたけど当時は。

M:今はどうです?

F:そうね、女一人なら交響曲よりもこの曲の方が構えずに済むわ…そう言えばこれも有名な句で 

 「うしろすがたの しぐれてゆくか」は、第七交響曲スケルツォの出だしみたいに感じるのワタシ。それでも強くなった雨の中を決然と往くみたいで。

M:ハハァなるほど。また確かに女一人でブルックナーの後期の交響曲にどっぷりハマって大音量で全曲通しで聴いてらっしゃるなんてなんだか八百比丘尼みたいで不気味かもだなあ。やっぱりこのクインテットあたりをひっそりと趣味の良いお部屋でこっそり聴いてらっしゃるのが美魔女様に相応しいのかも…で、久しぶりに日本語室町の砂場にご一緒しません?松茸もあるだろうしひょっとしたら小柱も…どっちも値段が怖いけど。

F:あらステキね。まだ暖かい日も続くみたいだし。でもご自分で分かってらっしゃるんでしょうけど最近のアナタってちょっとお酒を過ごすとすぐに足に来ますからね…昔は何をどれだけ呑んでも背筋はピンとして、お店の出口に向かう足取りもウソみたいにしっかりしてて。大昔に金田正一さんから言われたように「酒は二本!」を守って下さるんだったらご一緒させていただきますわ。

M:…というわけでお恥ずかしくもいささかどころか大いに体調不良なのですが、山頭火の句ほど短くなく、ブルックナー交響曲ほど長くもなくいま少し続けようと思っていますのでどうかもう少々お付き合いくださいませ…。

(Fin)

 

金田正一氏、いやカネさんのささやかな思い出。

 早いもので金田正一氏が他界されて丸五年にもなるのである。亡くなった直後、Amazonレビューに氏の旧著にして名著「やったるで!」(報知新聞社・絶版)のレビューとして追悼の意味で思い出を書き込ませていただいたのだが、その後Amazonの一方的かつ乱暴な判断で当方の書き込んだ全レビューが削除という憂き目に遭ったので、改めてここに書き上げるものであります。

 物心ついて以来の巨人ファンであったから、最初は憎っくき敵の大エース、やがて頼りになる存在として現役時代は仰ぎ見ていた。したがってその「やったるで!」も小学生以来、わが書架の一角にあったわけで。ロッテ監督としても巨人の連覇の途切れた’74年どさくさ紛れ(王貞治氏説)に中日を倒して日本一になり、まさに栄誉を極めた感があったがその間はご本人との接点は特になかったのだった。

 あれは’80年代の半ばだったか、ふとした縁で通うようになっていた銀座一丁目の福喜鮨に金田氏いやあえてこう呼ばせていただくがカネさんも良くお見えとの話を聞き、いずれお目にかかれればとの思いを抱いていたのである。そんな一夕、同じ銀座で商いをしていたわが母とそこの止まり木にいたのだが、ややあって扉が開くと天井を突くがごときあの長身が。あるじ親子が握って十数人で一杯の小体な店だったが、確か成城学園ゴルフ部で鳴らした上の娘さんがご一緒だったと記憶している。

 さほどの時間も経たないうちに何かの拍子にカネさんと当方の視線が絡み、軽く会釈するとTVなどでも良く見せておられた目を丸くするお茶目な表情で

 「おぉ、よう似てらっしゃるけどお母さんと息子さん?」が第一声。それからは他のお客も含めて人を逸らさないエンターテイナーぶりで、複数回お会いしたいつもがそうだった…いやもちろんご自身の鮨をつまむ愉しみの合間のサービス精神だったろうが。

 たまたま隣に座った時に当方の年齢を問われ、カネさんより二回り下の酉年ですと申し上げると

 「ウ~ン、じゃあワシの現役時代を覚えとるかなぁ」と懐疑的でらしたのである。ところが直後反対側のお客に

 「いやぁ巨人に行ってからのワシはもう出涸らしで…」とおっしゃっているのでつい

 「いやそんな金田さん、一年目は20勝こそ途切れたけど防御率1位だし、開幕戦でON砲に先んじて中日の権藤からホームランも打って完投勝ちだったじゃあないですか」と申し上げると  

 「おぉ〜良う覚えとるねえ!」と相好を崩して下さった。後で知ったのだが、年少者には「おぅ、ワシのこと知っとるか?」が挨拶代わりだったとか。ビートたけしにもこれをかましたとかで、後年若い選手が増え知名度に危機感を抱いたカネさんは「このおじちゃんは野球が上手かったんだぞ」とか「ワシを知っとるか、ナガシマさんだよ」などの変化球を繰り出したとやら。 

 その後も所詮素人に過ぎない当方の質問にも誠実に答えてくださり、たまたまその年のオープン戦で某チームのドラフト1位投手に素人眼にも明らかなフォームのクセが目についたので話すと、その投手を見ていないと前置いて

 「いやぁ、それは担当コーチが開幕までにきちんとするでしょう、せんとアカンがな!」 また

 「ゴルフはせんの?どうして!よし、ワシがなんとか」などとも。一方で「酒は二本まで!」と宣言され、ダラダラと呑み続けるのが常の当方としてはいささか耳が痛かったのだが。また酒を済ませたあとの握り鮨の召し上がり方も実に豪快でいらしたもので「親父、鯖だサバ、続けて」てな具合に。ある時店のあるじがふと金田さんの予約が入った日はそこまでなんですと打ち明け話を。光り物は特にお好きだったようだが店の名物に一名カネやん巻とあって締め鯵と漬け生姜に大葉の裏巻きだったのを思い出す。その福喜鮨も数年前に閉店した由でもはや幻の味となってしまったが。

 またお目にかかった最後の機会だったかと思うのだが、その晩も一緒だった母が手洗いに立った際に、意外にもカネさんから当方の身内へのちょっとした心配りの一言を頂戴したのである。何故ご存知なのかいささか驚いたが決して不快ではなく、なるほど噂されるピッチングにおける豪胆さと繊細さの共存がまさにここにあるのかと強く感じたものである…鮨屋で数回出会っただけの客の些細な情報を把握しておられるのだから。

 初対面の別れ際に当然のようにあの「黄金の左腕」で握手してもらったのだが、その分厚く温かな感触は今も当方の掌に残っている。またその時、まだ二十代半ばの当方は「お母さん大事にしてね!」と激励を受けたのだがそれより幾星霜、丸十年の在宅シングル介護の末に穏やかな顔で旅立たせたことは果たしてあの晩のカネさんのお気持ちに沿えたのだろうか…自問自答の日々は続く…。

(Fin)

チャールトン・ヘストン生誕100年。

Masculin:というわけですけど、一緒に映画館で観たのってありましたっけ、主演作で。

Féminin:…うぅん、私も覚えてないわ。「ベン・ハー」は確か’72年のリヴァイヴァルで観たけど…例によって父のこれは観ておきなさいランチまたはディナーセットで珍しく新宿プラザ、その後はとんかつ茶漬けのすずやに。あの頃は民藝風の普通に美味しい洋食屋さんだったわ。

M:大学入ってもまだお父様同伴の映画会が珍しくなかったんだからなあ。いくら父一人娘一人でも、ヤレヤレ…。

F:何よ、おかげでアナタと出逢うまで他ならぬこのワタシに妙な虫が付かなかったんでしょ、むしろ父に感謝してほしいくらいだわ…ねぇ、「ベン・ハー」の初公開の時の配給会社の担当の方の大奮闘エピソードがあるんでしょ?

M:そうそう、担当者は公開のちょうど一年も前から息をするならベンと吸いハーと吐けと言われ、街に出れば見知らぬ人に

ベン・ハーって知ってますか?」と聞き

「はぁ、便秘のクスリですか、それ」とか「ミーハーの親戚ですか?」だなんてやりとりを繰り返していたのだとか。半年前に至りようやく

「あっ、今度来る新しい映画でしょう、超大作の♡」と言われてホッとしたと。

F:そういう地道な宣伝が大ヒットに結びつくのよね、やっぱり。

M:そして迎えた本邦プレミア試写会はこれもわれわれには懐かしい銀座のテアトル東京で昭和天皇香淳皇后をお迎えして行なわれ、休憩時間に別室でお茶を差し上げるためロビーにお出ましになった両陛下の前には何と意外な人物が。

F:…意外なってまさかの。

M:そう、そのまさかのチャールトン・ヘストンその人がプレミアに合わせて来日してたんです。今までスクリーンで様々な苦難を喫していたジュダ・ベン・ハーがその堅固な長身をりゅうとしたスーツ姿に包み、居並ぶ関係者の真ん中に突然いるものだから昭和天皇思わず近寄られ握手を求められたと。と、宣伝部員氏もその場面を見て思わず目頭を熱くしたと。

F:良いお話ね、昭和の時代ならではの。もう少し続けましょうね、ヘストンのお話。ほら伊丹十三さんが「ヨーロッパ退屈日記」でヘストンの良いひとぶりを書いてたわね、「北京の55日」のロケで見知った。

M:えぇ、長期ロケも終盤のロンドンで関係者がめいめい一杯やりながら雑談してて、たまたまそこに不在のヘストンの話題になりその乗馬靴の話になったとか。まだ売れない若い頃からヘストンはいずれロンドンで乗馬靴を買うのが奥さんと交わした夢でもあったと。

F:ハリウッドスターらしくなく、永年ずっと一緒でらしたのよね…最期まで添い遂げて。

Mやがてロンドンで乗馬靴をオーダー出来る立場となったヘストンはある日、ボンド・ストリートのいかにも格式高い店のショウウィンドウにある乗馬靴に惚れ込み、ドアを圧したと。

F:ボンド・ストリートって伊丹さんも書いてらしたけどフォーブール・サン・トノーレよりも素敵な街並みなのよね。別にはともかくどっちも一緒に歩いたことがないけど…今となってはだわ。

M:…何かまた蒸し返されそうだなあ、若き日のわが煮え切らなさを。ヘストンですけどいかにも英国人らしいスタッフに出迎えられ、購入の意志を伝えるとスタッフは靴の目的、どのような種類の馬に乗るかなどさんざん質問し、止めにヘストンの脚のレントゲンまで撮ったと。

F:慇懃無礼なんかでなく懇切丁寧なのね、さすが倫敦の老舗は。

M:ところがちょうど現れたヘストンに誰かが顛末を聞くと、半年も経って忘れた頃に届いた乗馬靴はそれはそれは素晴らしい出来栄えなんですけど、中に入ってる木型がどうしても取れない、どこかにネジでもあるんだろうがそれも見つからず。

F:せっかくの奥様ともどもの夢の乗馬靴なのに…それで?

M:ヘストンいわく、たぶんあれは乗馬靴ではなく素敵な木型保管用の皮ケースなんだろうと。だからそのまま仕舞ってあるよと。

F:…良いひとだったのねえ、スクリーンでの幾多の英雄なんかとは違って、カントリー・ジェントルマンとしての。

M:僕も昔小耳に挟んだ話で、ハリウッドの有力コラムニストの家でハウスボーイをしていた日本人の話なんですけど、ある日のホームパーティでごった返す中奮闘中のハウスボーイにヘストンが 

 「君、コークを持って来てくれ」

 混雑をかき分けキッチンからボトルを一本 

 「お待たせしました、コークです」と差し出すとヘストンスクリーンではおよそ見せない何とも情けない顔で

「私はもう帰るんでコートが欲しいんだよ!」 

 慌てて取って返しヘストンのコートを持って来たら今度はヘストンいつもの英雄的な笑顔で去って行ったと。 

(承前)

 

追記。Wikipediaによるとヘストンの生年は’23、24の二説あるようで、おそらくご本人が売れない若い頃にサバを読んだ名残りと考えるものといたします、悪しからず。

 

 

追悼・山藤章二氏。

Féminin:どうしたの?具合お悪いのかって心配してたのよ、この数日。

Masculin:…えぇまあちょっと。でもまた気になる訃報が続きますけど、今度は山藤章二氏が…。

F:そうね…ほら、イラストのお仕事なんかはずっと以前からわたしたち存分に親しんでいたけど…お若い頃のベン・シャーン的なタッチもだし、特にこれも休刊の発表されたばかりの夕刊フジ初期に連続して人気作家のエッセイに挿絵…と言うより返歌ならぬ返絵を…でもこれまた半世紀も前なのね。

M:そうでしたね。あれは’72年の山口瞳「酒呑みの自己弁護」から筒井康隆「狂気の沙汰も金次第」に吉行淳之介「贋食物誌」と立て続けで、筒井氏のタイトルが意味深長なんだけどそれでもその百日連続エッセイに受けて立つイラストの方が大変なんじゃないかとウワサされたのを見事に乗り切り、業界内の山藤氏の評価をぐんと高めたとも…訃報と休刊の発表がほぼ同時なのも何やら因縁めいていて…また同じ頃の夕刊フジをもう一方で支えた宇能鴻一郎氏の訃報も。

F:…こっそり宇能さんの小説も読んでたの?ほら、あれは’92年のちょうど今頃だったかしら…山藤さんももう「ブラック・アングル」その他でイラスト界の巨匠と認められていて、上海蟹の最盛期だったからもう少し先ね、西麻布の中國飯店本店で。

M:そうそう、あの晩は長嶋茂雄監督の12シーズンぶりの復帰が内定し翌日記者会見の運びだったんですけど、たまたま予約してたわれわれも店内が例年以上に蒸し上がる上海蟹のだけでない熱気に溢れてるのを感じ取り、一体何故かと訝ってたら報知新聞のKデスクや日テレのОアナなど長嶋シンパとして知られてる顔ぶれが続々と奥の個室へと吸い込まれて行くんでハハァこれはと。

F:決起集会だったのね…それがまた長嶋さん大好物の上海蟹のベストシーズンで。またあの頃は中國飯店が輸入の元締めで雌雄ともに一番大きい蟹を押さえているって噂で、しかも支配人のJさん筆頭にお店のサービススタッフが手練ればかりて素早く熱々を眼の前で手袋してさばいてくれたから、他のどこよりも美味しく食べられたわ…大多数のお店みたいに蒸籠ごとどんと置いていってあとはご勝手になんてのとは違ってね…とその時、満席のフロアのいずこから特徴的なハイソプラノが聴こえてきたのよね。

M:そうそう、最初は特徴的な声の方としか思わなかったけど、ややあってあれ?この声の主は紛れもなくって確信しましたね…でもその時点ではまさに声はすれども姿はで。少しお客が引いてわれわれのいたテーブルからはかなり遠くにそのお姿が視えたのは黒柳徹子飯沢匡山藤章二のお三方で…とその時未だ喧騒で満ちていた店内が一瞬静まり返り、皆が振り返るとそこにミスターの姿が。

F:ほら私は壁際だったから、ミスターご入来の瞬間を真正面から見ちゃったのね。まさにスポットライトが当たってるとしか思えなかったわ。一転して静寂に包まれた店内を半周ほどして個室に入るすぐ前が黒柳さんたちのお席で、立ち止まったミスターが悠然とお辞儀して徹子さんも応じ、山藤さんは立ち上がって最敬礼してらしたわ…熱烈阪神ファンなのに。

M:山藤氏はミスターと同じくらい長身でしたね。また阪神ファンでもイラストのネタにさんざん取り上げていたからもっともでしょう。それに山藤氏はミスターのちょうど1歳下の同じ誕生日だったんですよ。

F:また黒柳さんのお声の素晴らしさ?を初めて生で思い知ったわ。カラヤンヴェルディのレクイエムの「リベラ・メ」で、ミレッラ・フレーニの声が天上から降り注ぐのを聴いたあの晩みたいで。

M:んっ?あれは’79年の来日でしょう、普門館の。確か研究室の人に誘われたけど断ったって…その前の’77年と同じく。

F:…あら、そうだったかしらね。だって誰かさんはあの初デートの’73年以来、もうカラヤンは結構って誘ってくれないし、浮気じゃないけど聴きたかったのよやっぱり。アナタだって’77年には大学のマドンナに断られたんですって。

M:まったくもう、あれは断られたんじゃなく断ったんですよ…でも自他共に認めてた下戸の山藤氏が上海蟹を何を飲みながら召し上がったのかなあ、ちょうどこの時季だから脱線しちゃって。ほらこれもその昔だけど、人気を二分していた和田誠氏に比べると描かれたいと思うひとがずっと少ないと。それはお二方のタイムマシーン的手法の違いのせいだっていうのが丸谷才一氏の見立てで、丸谷氏によれば和田氏は対象を数歳若返らせて描くと。一方山藤氏は皺その他を強調して老けさせると。

F:確かにそれじゃ特に女性は抵抗があるわねえ。男性でも野坂昭如井上ひさしのお二人が連名で我等せめてもう少し人間らしく描いて欲しいって。でも超然とした和田さんに対し、何者にも斬り込んで行く山藤さんと同時代で優れた方がお二方いたのは幸運だったのね。

M:その通りで。心からご冥福をお祈りいたします…。

(Fin)

配達された一通の書状〜墓仕舞いということ。

Masculin:というわけでつい昨日、特定記録郵便とやらの封書が僕個人宛に届いたんです。

Féminin:あまり耳慣れない名前ね…どこかお上からなんでしょう?

M:えぇ、《都立霊園からの大切なお知らせ》って表書きが。

F:…って、貴方はお母様を菩提寺で御弔いしてその後もきちんとなさったけど、ご自分は思うところがあるってそちらとは一線を引いてるんでしょ。都立霊園とは別に何の関わりもないんじゃ…。

M:勿論そうなんですけど、一応開封してみたら少々驚きの内容でして。

F:なになに、興味津々だわ。

M:珍しく野次馬オバサン根性なんか出さないで下さいます…おっとしまった、オバサンは禁句だったなぁ…。

F:あら覚えてらしたの?まあ実際のわたしたちもそれをずっと通り越してるんだけど、直接云われるとあまり良い気持ちはしないわね…しかも他ならぬアナタから…お互いまだ初々しい頃から紆余曲折はあったものの長いお付き合いの。まぁ今回は許してあげるから、それで?

M:ハイお姉様…ヤレヤレ、また何か高いものをご馳走する羽目に…まず「都立霊園の使用について」とあり、いきなり僕宛てで  

 「〇〇〇〇様のご親族である〇野〇〇子様が使用許可を受けている下記の都立霊園の墓所は、使用者(名義人)様の死亡又は所在不明のため、現状のままですと無縁墓所として、ご遺骨を改葬し、墓石等を撤去します。

 引き続き当該墓所の使用又はご遺骨の引取りを希望される場合には、使用者(名義人)の承継(名義変更)手続きが必要となります。

 このお知らせは東京都が貴方様を当該墓所の承継者として指定しているものではありません。改めてご親族とご相談いただき、墓所を継承する方をお決めください。また、承継する方がご親族間の協議で整わない場合には、家庭裁判所の調停または審判が必要となります。

 なお、すでに承継手続きを行っているにもかかわらず、この通知が届いたときは行き違いですので、ご容赦ください。

 何卒、ご協力のほどよろしくお願いします。」ですと。まあ確かに昨今、恐らく似た事情で都立霊園の幾つもの著名人の墓が突然のごとく消えたなんてニュースにもなってましたから。

F:…もう一つ分からないけど、使用者の〇野さんて方は貴方の腹違いのお姉様ね、お父様と同じご苗字だから。お亡くなりになってるの?

M:まるで近年は没交渉でしたし確か我々よりも二回りほど年上でいらしたから恐らくもう…ただ都立K平霊園に墓所があるのは知ってましたし父の一周忌を前に母を連れて墓参もしたんです…母はこれで気持ちが済んだわって。それなりに立派なお墓でした。父が亡くなってしばらくして都内の屋敷を引き払い、墓地の近くに越したという通知はもらいましたけど。

F:没交渉ってそもそも貴方がお父様の本宅やそのお姉様の存在を知ったのはいつ頃なの?

M:まぁ小さい頃からうすうす感じてましたけど、本宅に連れてかれて皆さんと対面したのは中3の秋だったなぁ。同じ都心でもいかにもちんまりとして妾宅然としたわが家とは比較にもならない鬱蒼とした庭に囲まれた邸宅で一人娘の異母姉と、その入り婿さん、僕と同級生の孫息子に二つか三つ下の孫娘…確かお姉様の後輩でしたよ、お嬢様学校の。

Fあら、それじゃきっと学内ですれ違ってるわね、貴方の姪御さんとは五年違いくらいなら。

M:そして本妻さんと古くからの女中さん。皆さんすこぶる丁寧にというか腫れ物に触るようにもてなして下さり、すき焼きをご馳走になって奇妙な気分で家路につきました。それからも二〜三度遊びに行きましたけど、普通の親戚の家って感覚にはついになりませんでしたね、やっぱり。またあの邸宅をいずれわがものにせんなんて野心も持たなかったけど。

F:…やっぱりね。私には熱烈にアタックして来たけど何に関してもどこか冷めてるコだなあってのはその頃の私の印象でもあったのよね。でも中3くらいでいきなりのそういう出逢いも、人によってはショックが大きいでしょうしね。まぁおマセからももう抜け出して、事態を冷静に受け止められるアナタだったんでしょうけど…でも書面の最初のご親族ってはっきり言うなら婚外子の意味なわけでしょう、貴方は。それと知ってそういう書状を良くも悪くも杓子定規に送りつけてくるものね、お役所って。何年か前までは相続だけでなく婚外子差別はあちこちでまかり通っていたのにいざとなると勝手なものだわ。

M:まぁ僕の戸籍の父親欄には親父の名がありますからね、そこからたどって来たんでしょうけど。ただいかにも型通りの感が。いずれ〇野家の家族で話がまとまらずに投げ出したんでしょうよ墓所を…まあ大体状況は想像がつくけど。そこに今さら腹違いのボクごときが…そうか、墓所どころか屋敷の土地丸ごと引き受ければまるでチェーホフ櫻の園」のロパーヒンみたいだったなぁ。

F:またそんな…確かに貴方の立場で本来口を出すべき事柄ではないわよね。でも何も言わなければ…。

M:「令和6年9月24日までにご親族からご連絡がない場合には、都立霊園を使用する人がいないものとして、無縁改葬し現地は更地にします。」と、いきなりの最後通牒ですね。まあオフィスに電話の一本くらいしてみようかと…意思表示とは別に牽制球のつもりで。

F:ねぇ、ところで貴方のお父様の来し方ってうかがってなかったわね。一度もお目にかかることがかなわなかった明治生まれのダンディについて少し知りたいわ。

M:そうでしたね…生まれは福岡の久留米で育ったのは長崎だと聞いてました。ハレー彗星を見て青年の志に火が付き?16歳で単身上海に渡って皮製品に目をつけ当たりを取り、帰国して東京で本格的に皮革で商売をと計画してたら大震災でつまづいて。当時会社は浅草にあって、社員一同浅草寺の境内でまんじりともせずに過ごしたとか。それでも人的被害は皆無だったそうで。

F:やっぱりおひとりで十代のうちに海外に出て行動を起こすってアクティヴな方だったから、震災も無事逃れたのかしら。それからはまた順調だったの。

M:えぇ、また少し前後しますけど’ずっと後’78年の秋に珍しくニューオータニの庭園のステーキハウス石心亭ヘ行こうって。ロビーで待ち合わせて一緒に庭に出たら、暮れ残る西の晴れ渡った空に金星が一際まばゆく輝いていたんです。

 「おお、何だあの星は。綺麗だなぁ。」

 「金星、宵の明星ですよ。ちょうどいま最大光度の頃です。」

 「何だ詳しいな、お前。」

「ほら、小学2年の時に天体望遠鏡を買ってもらったじゃないですか。」 

 「ふぅんそうだったか、そう言えば俺が上海に行った頃、ハレー彗星が地球に衝突するって世界中大騒ぎになってたんだよ。夜になると長い尾を引いてなぁ…まあ無事だったんだけど。その後また世界はずいぶんいろいろとあったもんだが。」

 「ハレー彗星が来てから半世紀で、二十世紀だった世界の災厄の大半は出つくしたようなもので…次に来るのは’86年の春ですからもうすぐ7年半後ですよ」 

 「ウ~ン、どうかなぁ俺の方がそれまでもつか…」と言ってましたけど楽にクリアしましたね。ただし彗星はほとんど視えませんでした…話を戻すと皮革に目をつけたのはやはりそういう狙いがあったんでしょうけど、陸海軍両方に食い込みあっという間に大変な成長をしたとか…典型的な軍需成金ですね。それで当然のごとく新橋の花柳界にも出入りするように。前にも話しましたけど若い頃は173センチと明治生まれにしては長身でしたから。

F:ふふっ、でもお父様の羽振りがよくならなければお母様との出逢いも無かったわけだし、アナタもいなかったわけだから。62歳の時ですって、アナタが生まれたのは。それで百まで長患いもせずお元気で、スゴいわぁ没後30年なのね…。

M:何感心なさってるんですか。とまあここまでの多くは’88年にニューオータニの一番大きい鶴の間で米寿記念パーティを開いた時に出席者に配った「思ひ出」と題する小冊子によるものです…あのパーティが生涯最後の晴れ姿だったんでしたね。まあ戦後は多くの例に漏れず打撃を受けましたけど持ちこたえてそれなりに、ただし本人は戦犯の疑いでしばらく巣鴨プリズンに留め置かれたそうです。だから僕の記憶にある最古の姿は若い頃からの短髪が胡麻塩になり、だんだん真っ白になるくらいでしたね。足腰は戦前からゴルフで鍛えていたせいか、実にしっかりしてました。ところがボクが5歳くらいの時かなぁ、銀座で迷子にされて。

F:お二人だけで出かけたの。まあ知らない人から見たらお孫さんよね、本家には同級生の方がいらしたって。

M:えぇ、またなまじ足腰がしっかりしてるせいでつい急ぎ足になりがちなんですよね、子供を気にもせず。その日は何か買ってやろうと一緒に松屋銀座へ出向いたんです。ところが1F化粧品売り場の辺りで突然姿が見えなくなって。至って冷静に背伸びし、目の前の口紅売り場の店員さんに呼び出しを頼みました…「スミマセ〜ン」て。

F:そんな頃からも冷静で泣きわめく愁嘆場を演じないのはさすがのアナタね…それが少し物足りなくもあったんだけど、若い頃のワタシには。

M:…ややあって苦笑いを浮かべながら戻って来ました。その日はすぐに父子再会で別に何事も無かったけど後年その顛末を母に話したら呆れて笑い

 「それは誰か会いたくない相手が近づいて来たんで貴方を放ったらかしにして逃げちゃったのよきっと。銀座通りを私と一緒に歩いてても気がついたらいなくなってて困り果てたことがあるの…新橋でも突然いなくなったり現れたりするんで『お化け』って呼ばれてたんだから(笑)。」ですって

F:まぁ、ワタシの勝手にイメージしてたダンディとはいささかかけ離れてらしたのかしら、少しガッカリだわ。でも前に貴方いわくウチの父が中高くらいの私をしばしば連れ歩いたのは見せびらかしたかったんじゃないかって「父子シネマ」でもお話したけど、もしかしたらお父様も同じ気持ちでいかにも利発なわが子を連れ歩きたかったのかも…ファッションセンスも素敵でらしたのね。

M:そう、いつも細身の体型をきちんとオーダーメイドのスーツに収めて、子供ごころにもカッコいいなあと思ってましたね。ついに直接確かめなかったけど、やっぱり若い頃に上海租界で叩き込まれた英国風だったんだろうと…よそのお父さんとの年齢差なんか感じさせず。ほら、父の日に父親参観日があったでしょう。イヤな顔もせず現れ堂々としてたから。

Fやっぱりご自分の身のこなしや立ち居振る舞いに自信がおありだったからでしょうね。周囲のお父さん方は二十歳以上お若いのに負けないって。

(承前)

 

知床遊覧船事故の社長逮捕について。

 あの悲惨な事故が事件としてようやく二年半近くの月日を経て立件されたわけだが、既に報じられているように実質的な運行管理責任者としてはあまりにも無責任な姿勢で、亡くなっているふたりの乗船クルーにのみ全責任を負わせるような態度は、これも全員亡くなっているか行方不明の乗客ご遺族の神経をどれほど逆撫でしたことか。処罰感情が高まるのも無理からぬことかと。

 またただ一度開かれた事故後の会見では冒頭中盤終盤と三度の土下座パフォーマンスを見せたが、土下座の回数で立件を免れるとでも本気で思っていたのだろうか。社長の個人的な事情などまるで知ったことではないが。

 ついシリーズで屈指の秀作として知られる「男はつらいよ 知床慕情」の遊覧船シーンを思い出してしまった。亡くなった乗客が観たかも知れないあの美しい知床の風景は、今や哀しみに満ちたものでしかないのだろうか…。

フリッツ・ヴンダーリヒ没後58年。

Féminin:一週間前のアルフレード・クラウスに続いてってのも変だけど、今日はヴンダーリヒの命日なのね。

Masculin:そうですね、また60過ぎまで美声を保って活躍したクラウスに対してヴンダーリヒはわずか36歳で不慮の死を遂げて。生年は三つ下なのにつくづく惜しかったですね。来日もなかったし、代表的な録音も没後に慌ただしく発売されて。

F:そうね、わたしたちは間に合わなかったけど、父やあの人は「美しい水車小屋の娘」や「詩人の恋」を発売直後に聴いてびっくりしたんですって。エルンスト・ヘフリガーも忘れるくらいに…ほら、「詩人の恋」の第1曲「美しき五月に」の歌い出し"Im wunderschönen Monat Mai"の一節それだけで。

M:日本の聴き手がびっくりした時にはもうこの世にいなかったんですからねぇヴンダーリヒは…あれはボクも思い出すなぁ…’80年代後半だったか、エビスビールのCMでいきなりその「美しき五月に」が聴こえて来たんです。バックはそれに相応しい新緑の映像で。すぐにサッポロビールの広報課にTELして聞いたら案の定ヴンダーリヒでした。電話口の向こうの担当者は資料を持って来て丁寧に応えてくれましたね。エビスはあの頃、他にも美空ひばりの歌う「バラ色の人生」を使ったセンスの良いCMを作ってたけど、その後は「第三の男」のヴァリエーション一辺倒で…わが社は所詮ビール業界三番手だなんて自己憐憫なのかなぁ(笑)。

F:まだネットなんか無かった頃ですものね、ちゃんとした会社はそういった問い合わせにもマジメだったんだわ…もっともずっと昔、ウチの父が某TV局に番組で使ったクラシックの曲で同じような問い合わせの電話をしたら「…知るかバカヤロー、コッチは忙しいんだよ(ガチャン)!」て切られて、もうあの局は観ないぞってプンプンしてたけど(笑)。

M:TV屋が良くも悪くも調子に乗ってた頃なんでしょうね。ほら、もうこれも十数年昔だけど、母の訪問看護に来てたS路加の訪看ステーションのナースがドイツ語を習ってるって言うんでヴンダーリヒの「詩人の恋」他のCDをプレゼントしたんです。その後結婚してドイツに旅立ちましたと。

(承前)