馬鹿も休み休み言いやがれ!

 つい今しがた、公共放送の「新プロジェクトX」とかのオープニングで、ナレーターが「東京のど真ん中」と言い放ったが、「ど」とは中世以降の関西の接頭語だということは常識の範疇ではないのか?関東ならば「東京のまん真ん中」とでも言うのが当たり前以前の常識だろう。「皆様のN○K」が聞いて呆れるというもの。恥を知れ、また受信料を返せ!

極私的「キャンディーズ」の思い出。

Féminin:…えっ、なあに。キャンディーズってあのランちゃんミキちゃんスーちゃんの…アナタ興味があったの?

Masculin:ちょっと、そんなわけないでしょう、長いお付き合いで「花の中三トリオ」とかあの手のアイドルには同世代の連中と違ってまるで無関心だったのを良くご存知じゃないですか、少年の昔から。

F:うん確かにね。知り合った頃から背伸びしてたわけでもないんでしょうけど妙に大人びた可愛くない「年下の男の子」だったし。それがまた今頃どうして?

M:お姉様は僕にとって「やさしい悪魔」そのものでしたけどね…いやぁ、たまたま気付いたんですけど、今日4月4日はそのキャンディーズがファイナルカーニバルと題して解散コンサートを開いた日なんですよ、1978(昭和53)年。プロ野球開幕直後の後楽園球場に五万五千もの観客を集めて。

F:うん、何だか大変な騒ぎだったのは覚えてるわ。巨人ファンのウチの父も、後楽園に野球以外でそれだけ若い者を集めるのは大したものだなぁって妙に感心してたし…まあ平和な時代の学徒動員てとこかなんて皮肉もね。

M:ハハァ…それでまた妙なことを思い出したんですけどその日からひと月半ほどの5月下旬の某日、今は無き秋葉原石丸電気本店3階のレコード売場を目指していたんです。例によってクラシック輸入盤の新譜をあさりに。

F:毎度の立ち回り先ね、大学からも近かったのを良いことに。逢う時の大半はあそこの黄色いレコード袋を抱えてたわ。それでそのまままだ観光地化なんかしてなかった連雀町かんだやぶそばで待ち合わせたりもしたわね。生意気にも老舗のお蕎麦屋さんで夕方から一杯なんてシブい愉しみをもう覚えてたんだから。あいやきや天だねでお銚子あげて、せいろ二枚くらいで仕上げて…でもあの頃はインバウンドのお客さんなんかいなかったから、その時間ならゆっくり過ごせたのにね…最近はもう一年中が大晦日みたいらしいわ。

M:…階段を上がってると上階から手提げ袋を下げいかにもウキウキした様子を隠さない見覚えのある男が。ほら、お話したでしょう、ずっとピアノをやってた中高の同期でその五年後’83年に伝説的ピアニストのヴラディーミル・ホロヴィッツ初来日の時、チケット入手で一緒に銀座で徹夜して並んだ奴で。

F:あぁ、確かずっとホロヴィッツのファンで、来日の前にもシアトルだったかまで聴きに出かけたってひとよね。何かレコードを買ってらしたんでしょ。

M:まあとりあえず呼び止めたんですけど、その瞬間何故かソイツの顔に明らかな狼狽えの色が浮かんだのを見逃さなかったんですよ。一瞬怪訝に思いましたけど構わずに

「何買ったんだい、オペラの全曲盤か?へぇ、ポスター付きかぁ…」と手提げの中を無遠慮に覗きこもうとしたら、一瞬後ずさりした彼奴はすぐに観念したかの様子で

「…ウ~ン、実はキャンディーズのライヴ盤なんだよ、先月の。言わなかったけどデビュー以来ずっとファンだったんだ…みんなで笑いものにしてくれよ!」と大型電器店の階段で笑撃の告白で。吹き出しそうになりましたけどとっさに

「いやぁ、そんなことはしないよ」と取り繕いました。

F:へぇ、貴方と一緒でクラシックばかり聴いてたはずのひとがね…カトリックの男子校だからカミングアウトしにくかったのかしら。でもそれくらいの弱点があっても不思議ないでしょう。デビューから追っかけてたんでしょうし…同年代のアイドルにまるで無関心な誰かさんの方が変わってたのよ。4月4日の後楽園でも、もしかしたら五万五千分の一だったんじゃないその方。

M:まあそれはともかく奴としては天網恢恢じゃないけどよりによってマズい相手に出くわしたと思ったでしょうし、一刻も早く帰宅して聴きたいでしょうからすぐに解放してやり、僕も輸入盤を二〜三枚買って帰り、さっそく共通の友人に電話でことの顛末を話して二人で大笑いしましたけどね(笑)。顔を合わせれば

ホロヴィッツシューマンはさぁ…」なんて話しかしなかった奴が、実はキャンディーズのデビュー以来の大ファンだったなんて。

F:本当にワルいひとね。そう言えば岩城宏之さんがエッセイで書いてらしたんじゃない。ある日、山本直純さんが電話して来て、受話器の向こうで大はしゃぎして黛敏郎さんの弱点が分かったぞって。何でもポロッとインスタントのソース焼きそばが好きだって口を滑らせたんだとか。

M:えぇ、僕も読みましたねそれ。直純氏は

「黛のヤツ、いっつも気取って食通の権化みたいな顔してやがるくせに、本当の大好物はインスタント焼きそばなんだと、ギャハハハハ!」って大変な喜びようだったとやら。確かに黛氏は「題名のない音楽会」の海外ロケでも「料理と音楽におけるフランスの栄光」てタイトルでリヨン郊外のポール・ボキューズ本店に出かけたりしてましたからね。まあ誰にも弱点があるってことで。

F:そうよ。アナタだってアイドルなんかには無関心だったけど、他に幾つも弱点があったのは良〜く存じてますから♡。

M:…おっと、また何やら雲行きが…。

(Fin)

「テキサスの五人の仲間」(’66米)〜エイプリルフールに、この一本?

Masculin:これをわが家でご覧いただいたのは、もう四半世紀ほど昔、まだVHSビデオの頃で。憶えてらっしゃいます?

Féminin:うん、そうだったわね…あら、ちょうど今日…4月1日じゃなかった?

M:そうなんですよ、いやその日にこそ観ていただきたかった映画だったんで。また公開時、丸谷才一氏がまさにその「エイプリルフール!」って題で批評を書いてらして。だけどあの晩、ラスト直前のお姉様のお顔ったらなかったですね。名うての美女がポカンと口を開け、あんなにも呆気にとられて(笑)。それまでの、いやその後の長いお付き合いでもおよそ見たことのなかった無防備さだったからなぁ。

F:ウ~ン、だってメインストーリーにはジーンとくる一応の大団円があって、それからホロリとさせるエピローグが続いて、まあ撃ち合いもないし誰も死なないけど役者は揃ってて良く出来たハートウォーミングなコメディ西部劇だったわねって思ってエンドロールを待っていたらまさかの…あら、いけない、これ以上はネタバレになるから。でもヒドイわ、こっそりソファの隣でワタシの様子をうかがってたのね。家に帰って、まだ元気だったウチの父に話したら

「あぁ、あれねぇ良く覚えてるよ。そうか、彼にしてやられたなぁ」って笑ってたの。封切りで母と一緒に観て、二人揃ってワタシ同様何が起きたのかって客席で口をポカンだったんですって。でも映画館なら明るくなるまで時間があるし、呆気にとられてるのは二人を含めて場内のお客さん全てですものね。自分だけ知ってて横で様子をうかがってるのはズルいわよ。

M:ハッハ、すみません。そもそも僕も初めて観たのは高校の頃に淀川長治氏の「日曜洋画劇場」でだったんですよ。何の予備知識もなく、なかなかの豪華キャストだなぁと思って。そしたらオープニング解説では深刻な顔の淀川氏が

「…街にやって来たヘンリー・フォンダの博奕好きのお父つぁんがジョアン・ウッドワードのおっ母さんといたいけな子供が必死に止めるのも聞かず、ポーカーの大勝負に巻き込まれてしまうコワイコワ〜イお話なんですね…ハイ、また後でお会いしましょ!」とまるでホラー作品みたいな前フリで始まり、2時間弱後のエンディングでは一転満面の笑みを浮かべて

「ハイ!アナタ、見事に騙されましたね(笑)」

 確かにボクもまんまと罠にはまり呆気にとられたんだけど、でも騙される快感みたいなものを確実に味わいましたね。

F:タイトルも原題の"A Big Hand for the Little Lady"はストレートだけど、邦題の「〜五人の仲間」は年に一度のポーカーの大勝負に集まるジェイソン・ロバーズたち町の五人の名士のことなのかと思ってたら実は…ってなかなかひねりの効いたタイトルなのね。昔の配給会社の宣伝部はセンスがあったわ。最近はただカタカナにするだけで。

M:プロデューサー兼監督のフィールダー・クックはTV出身で、あの名作医療ドラマ「ベン・ケーシー」の第一話も撮ってるんですね。また音楽のデイヴィッド・ラクシンも「ベン・ケーシー」の印象的なオープニングテーマ曲の作曲者で…そう言えば先年入院した時、ストレッチャーで廊下を移動してて天井を見ながらまるで「ベン・ケーシー」のタイトルバックだなぁと思い、若い医師やナースに話してもまるで無反応でしたね。ところがその後、またまた救急搬送されてER(緊急救命室)で懲りもせずナースに同じ話をしたら「あら、私知ってます」と。訊けば定年後再雇用で同世代近くのひとでした。

F:またまたお年を感じたのね。それにしてもERでそんな昔のTVの話してるんだから本当に「のんきな患者」だわ、相変わらず。でもコン・ゲームものとしては「スティング」って名作があるけど、これもあれほど巧妙な仕掛けの連続ってわけじゃなくストレートでシンプルな造りとはいえ記憶に残る一本ね…。

(Fin)

「ラタトゥイユ=野菜のごった煮を冷やしたもの」〜辻静雄。

Féminin:…ふ~ん、辻静雄さんてあの辻調グループの創設者の方でしょ?辻調理師専門学校(当時)の初代校長で、文化としてのフランス料理を日本に定着させた功労者の方よね。そんなことをおっしゃってらしたの…確かにその通りでしょうけど。

Masculin:えぇ、昔お書きのエッセイでね。もともと新聞記者でらしたから筆の立つ方だったんだけど、その脚注でこう端的に。まあまだまだわが国でフランスの地方料理なんかは馴染みが薄かった時代ですからね。ちなみにそのエッセイはホテルのレストランで慇懃無礼なギャルソンに場馴れしてない客と見くびられ、不快なあしらいを受けた友人にリベンジの秘策を授けるって痛快な内容でしたけど、長くなるから…。

F:そう言えば貴方のラタトゥイユのルセットを詳しく聞いたことは無かったわね。何度もおすそ分けはいただいたけど。

M:そうでしたね。やっぱり一度仕込むと結構大量に出来るんで一週間毎日なんてことになりかねないんで、お姉様にお届けしたり母の介護期間には訪問のナース諸嬢に試食してもらったり…そうそう、もう十数年も昔だけど職場内で天然で知られたナースに出したら

「美味しい!イタ飯屋さんと同じ味がします」ですと…。

F:うふふっ、腕に覚えのアナタとしては素直に喜べなかったでしょうね、確かに。

M:ねぇ、その頃雨後の筍のごとく増えてた街場のなんちゃってイタリアンなんかと一緒にされちゃ…実際近所のワインパブで食べたのなんかトマト感が薄いところに牛蒡や筍に蓮根まで入ってるものだから、まるで洋風筑前煮でしたからね。それじゃあ改めて。まず煮込み鍋で潰したニンニクのアシェをピュアオリーヴオイルでスェエします。これはイタリアンのやり方でフレンチでは途中で加えるのが主流みたいですけど、ニンニクの香りが突出するのが嫌いなんで。

F:イタリア人て意外にニンニクの香りには敏感なのよね。私も貴方と一緒で、とげとげしい香りは苦手だわ。

M:次いで1センチのデ(角切り)の玉葱を加え、トマトペーストと湯むきして横に切ってから六等分したトマトも加え、軽く塩をして煮詰めます。

F:生のトマトだけでなくペーストも使うのは、やっぱり日本のトマトだけじゃ味が薄いから?

M:ご明察で。缶のホールトマトを使う手もあるけど、下手すると出来上がりがトマトの味で塗りつぶされて他の野菜の持ち味がかき消されかねないし、やっぱりトマトのフレッシュ感も欲しいんで。煮込みのベースはここまでで、次いで楽しい野菜の仕込みへと。

F:使うのはお茄子、ズッキーニとパプリカね。前に貰った時はセロリやシャンピニオンも入ってたかしら。

M:基本は前の三種で後の二つはお好みで。ただしあればズッキーニは緑と黄、パプリカも赤と黄と色違いを混ぜて下さい。色だけでなく、味も食感も微妙に違って変化が付くから。全て2cm角のデに切り揃え茄子は水に放ってアク止め。フライパンでピュアオリーヴオイルを使いズッキーニ、茄子、パプリカの順に軽く焦げ目の付くくらい強火でソテーし、煮込み鍋に加えます。

F:ソテーするのは煮崩れを防ぐためかしら?

M:そう、それと野菜それぞれの持ち味を閉じ込めるためで。ひとつひとつの素材の味が際立ちつつ、全体がまとまってるのが理想ですから。新鮮な揚げ油が大量にあれば軽く素揚げって手もありますけど。全部鍋に移したら赤ワインヴィネガーを振りアセゾネしてカイエンヌ・ペッパーとブーケ・ガルニを加えオーヴンに鍋ごと入れます。

F:煮込み時間は?全体の量によって違うわよね。

M:基本15分で、途中かき混ぜて具材の歯ざわりと味の染み方を確認して下さい。余計な水分が残ってたら直火で飛ばし、最終的な味の確認を。冷製で出す場合はしっかり目の塩加減が鉄則です。お得意のウフ・ポシェ(ポーチドエッグ)を乗せ、EXヴァージン・オリーヴオイルを垂らし松の実やハーブで飾ってどうぞ。

F:…もう、ワタシがポーチドエッグを上手く作れないの知っててそんなイジワルを…いいわ、その辻校長がお友達に授けたリベンジの内容を教えてちょうだい、参考にするから。

M:ヘッヘッヘ、いや辻氏は友人に当時のホテルのフレンチでは未だ馴染みの薄い料理名を幾つかフランス語でレクチャーしたんだそうで…ビスクやテリーヌにビリ・ビやラタトゥイユやらを。それらを一夜漬けで綴りごと懸命に覚えた友人は同じ店に再び出向き、案の定現れた先日の慇懃無礼なギャルソンにメニューを開きもせずそのままフランス語でオーダーをぶつけ、うろたえた先方に

「何だったら今言ったメニュー名を全部フランス語で書いてあげましょうか?その紙をシェフに見せればたちどころに判るはずだから」と止めを刺し、ギャルソンは慌てて厨房に走ったと。

F:痛快なリベンジね。確かに昔のホテルには失礼な黒服サービスマンがちょくちょくいたし。ウチの父も時々腹を立ててたわ…「どうしてアイツらは客より偉そうにしとるんだ」って。

M:ややあって厨房から現れたシェフは

「どうもまだオーダーも取れない未熟なサービスで申し訳ありません。生憎ビスクやビリ・ビはすぐには無理ですが、本場のニースで覚えた私のラタトゥイユならお客様のような通の方のお口に合うと思います…いやぁ最初『ガタトー、ガタトー』と言うので何かと思いました(笑)」

 そんなシェフとのやり取りを横でハラハラしながら聞いてるギャルソンを見て、友人は勝ったと思ったと。ところが覚え込んだフランス語なんかで頭が一杯になってたものだから、その後次々と供されたラタトゥイユはじめせっかくの料理の味がまるで分からなかったんですって。

F:ふ~ん、それじゃあまるでアナタがせっかく腕を振るってくれても、時々講釈ばかり多過ぎて肝心のお料理の味が良く分からなかった時とそっくりね(笑)。

M:…ウ~ン、見事にやり返されたなぁ…。

(Fin)

ディノ・チアーニを知っていますか?〜歿後五十年に。

Masculin:…って、マウリツィオ・ポリーニの訃報に接したばかりですけど、今日3月28日はディノ・チアーニがローマ市内で交通事故により32歳の若さで他界してからちょうど五十年なんです。来日も勿論無かったし国内盤もほとんど出てなかったから、日本では知る人ぞ知るというか無名に近い存在だったけど。

Féminin:確かポリーニより1歳上で、ともにイタリアでは期待の若手ピアニストとして将来を嘱望されていたのよね。ほら、私は貴方からお借りしたドビュッシー前奏曲集のLPで初めて知ったんだけど、亡くなってもう数年経ってたかしら。

M:えぇ、僕も偶然にドイツ・グラモフォンの新進演奏家にスポットを当てたデビュー・シリーズの一枚で、唯一日本国内でリリースされていたシューマンの8つのノヴェレッテを聴いたのが最初だったんです。確か亡くなった翌年くらいだったと。それでビーレフェルダーのカタログで調べたらDGから出てたのはシューマンの他にウェーバーソナタ第2、3番とドビュッシー前奏曲集全二巻。すぐに今はない渋谷のヤマハで注文したんですけど何故か入荷せずで。

F:確か借りたのはモネ「睡蓮」のジャケットの廉価盤だったと思うけど。

M:そう、通常盤は何故か早々に廃盤で、日を置かずに再発されたようなんですけど忘れもしないその盤を神田神保町にあった博覧強記で知られた主の輸入盤専門店「H」で見つけたのが6月16日で、チアーニその人の誕生日だったんです。帰宅してから知り、ちょっと驚きました。

F:偶然といえば偶然なんでしょうけど…そう言えばアルフレッド・コルトーに学び、三十代の前半で亡くなったのはディヌ・リパッティと同じなのね。

M:そうなんですよ、ファーストネームも同じですからね。まあ難病と事故と、死因は違いますけど。それで正規のセッション録音はそのDGのLP4枚分で全てなんです。シューマンに先立つ同じ’68年2月にクラウディオ・アバド指揮でヤナーチェクのコンチェルティーノをロンドンでデッカが収録したけど何故か今日まで日の目を見ずで、後は全て放送録音とライヴですね。

F:最初に聴いたドビュッシーはとっても素敵だと思ったわ。響きの多い録音でムード的に聴こえかねないけど、決して標題に引っ張られているわけではないのに豊かな詩情を感じさせる名演と思うわ。

M:おっしゃるとおりです。やっぱり戦前のコルトーの名演を思い出させるようで。ウェーバーシューマンも同様で、特にシューマンはこの曲集がもっと弾かれかつ聴かれるべき作品だと強く感じさせますね。その他はやや音質的に物足りないけど、若い頃からリートの伴奏を含め大変広いレパートリーを持っていたのは明らかで。

F:でも亡くなって半世紀経つのにこれだけ録音が生き残ってるのは、やっぱりイタリアでずっと忘れ去られることなく敬愛されているってことかしら…YouTubeにはコンサート映像もかなりあるし"Dino è vivo(ディノは生きている)"なのね。

(Fin)

"How dare you say that,P.R.!(お前が言うな、P.R.!)"

Féminin:…どうしたの?今朝の会見を観てお怒りなのかしら…。

Masculin:いや別にそういうわけでは…会見ていうより事前に用意したコメントの公表でしたけど、まあ今の段階で彼の口から明らかに出来るのはあの程度が限界だろうし、誠実に対応したと思いますよ。未だ不透明な部分については機構や捜査機関の調査と判断に委ねるのみで。

F:そうね、シーズンも本格的に始まるんだし、彼のなすべきことはグラウンドで全力を発揮するのみですものね…それじゃ一体何に対してお怒りなんでらっしゃいますの?

M:いやかつてメジャーリーグで通算4256本という史上最多のヒットを放ち数多くの栄光に彩られながら、現役の頃から監督時代を通じて違法なギャンブルに手を染めていたことが露見して永久追放の処分を受けている人物が、あろうことか今回の件について

「’70〜80年代にも通訳がいたら俺は無罪放免だったよ」と皮肉ったんですと。

F:💢何それ、それじゃあご自分のしたことを今に至っても大して反省すらしてないのかしら。呆れたわ、’78年の秋にチームで来日した時の「チャーリー・ハッスル」ってあだ名のままのプレーは本当に素晴らしかったのに。

M:本当に失礼な言い草ですよね。イチローが日米通算で自分の安打数に迫った時も

「俺のマイナー時代の安打数も加えてくれよ。アメリカと日本には差があるんだから」なんて言いましたけど…確かに現役時代のクラウチングスタイルから球に食らいつくバッティングと、果敢に次の塁を狙うまさに宙を飛ぶがごときヘッドスライディングとそんなファイト溢れる姿を親善野球でも衒いなく我々に見せてくれた「ビッグ・レッド・マシン」のレジェンドが、監督就任後に露見した違法賭博…自らが監督を務めるチームまで賭けの対象にしていたと…のかどで最も重い処分を受けたという事実を果たして真剣に受け止めているのかどうか。そんな態度だからコミッショナーの恩赦も与えられないんでしょうけど。

F:もうとっくに"Fallen Idol(墜ちた偶像)"なんでしょうけどねぇ。それにしても自ら晩節を汚していることすら分からないのかしら…。

M:まあ今やかつてのブラックソックス事件の時、不正行為を認めたシューレスジョー・ジャクソンにファンの少年が叫んだとされる

「嘘だと言ってよ、ジョー!(Say it ain't so, Joe!)」のような痛切な言葉は、P.R.の耳に届かないんでしょうね…多分永遠に。

(Fin)

Maurizio Pollini〜In Memoriam.

Masculin:ついこないだ、ブラームス変ロ長調コンチェルトの話をしていて、ポリーニの演奏にも触れたら残念な報せが…。

Féminin:ねぇ、まだ私たち小澤征爾さんの悲しい報せからも立ち直っていないのに…このところキャンセルが続いてらしたのは知ってたけど。

M:思い出すのは’86年5月9日。クライバー指揮バイエルン国立管の初日の文化会館の客席で小澤さんとポリーニの姿をお見かけしたんですよ。

F:その後楽屋にクライバーを訪ねたお二人の写真を見たわ。関係者を交えた会食の写真も。

M:ところが録音は沢山聴いたけど、我々ついに一度もポリーニの実演は出かけなかったんですよね。

F:そうね。私たちアルゲリッチは一緒に聴いたけど、そのせいかポリーニは疎遠だったのかも…あの人も何故かミケランジェリも含めてイタリアのピアニストには無関心で。

M:とにかくドイツ・グラモフォンからのデビュー盤だった「ペトルーシュカ」からの三楽章とプロコフィエフの第7ソナタ、続いたショパンの練習曲集の完全無欠ぶりったら恐るべしでしたからね。さらにさすらい人幻想曲シューマンの幻想曲と同じ路線だったけど、そのアバドとのブラームスでおやっと…。

F:あれを輸入盤で聴いた時にもしかしたらライヴ収録じゃないかって言ったわよね、貴方。

M:そう、別に破綻があるわけじゃないけど、何か気配がね。そしたら後年アバドがインタビューで「あれはライヴだったんだよ」と言ったんでやっぱりと。

F:そう、今聴いても第1楽章や特に第2楽章の中間部になだれ込むあたりはただならぬ熱気よね。でもあの頃からポリーニの芸風が変わったんじゃないかしら。それまで録音で聴く限りではミケランジェリの後を追うような完璧主義なのかと思ってたけど。

M:そうですね。初来日でシューマンの交響的練習曲を聴いた知り合いは、録音とかなり違うイメージだったと言ってましたけど、そういう姿がだんだん顕著になり演奏スタイルが変化したのか。まあ一度も実演を聴かなかった我々が軽々しく断定出来ませんけど。

F:ねぇ、音楽と直接関係ないけど、’10年に高松宮殿下記念世界文化賞の授賞式でソフィア・ローレンポリーニが並んでたじゃない。あの時戦後イタリアを代表する女優とピアニストなのに、それまであんまり接点がなかったのかお二人ともどことなくよそよそしく見えたのね…。

M:えぇ、僕も同じように感じましたね。生粋のローマっ子のソフィアとミラノ生まれのポリーニで気が合わないのかなんて…あとソフィアの頭が半分くらいポリーニより高いとこにあったこと。

F:ヒールの分くらい高かったのかしらね。

(承前)