「本日肉の日」〜マイ・ベスト・ローストビーフ。

Masculin:というわけでお料理の話が続きますけど、いかがです?

Féminin:またさり気なくイジワルね。自他ともに認めてる食いしん坊のワタシが乗らないはずもないでしょ。

M:そうでしたね、昔からケンカしても美味しいものであっという間にご機嫌が直って。それじゃあ肉の日だから、かねてからご好評いただいてる僕流のローストビーフの詳しいルセットをば。

F:そう言えば詳しく聞いたこと無かったわね…お母様も貴方の拵えるお料理で一番お好きだっておっしゃってたって..。

M:そうでしたね…八十過ぎても僕の作ったローストビーフなら200gくらいペロリと平らげてたから。そもそも最初に作ったのはやっぱり半世紀以上昔、ちょうど我々知り合った頃で。

F:ナマイキな高校生の面目躍如だった頃ね…初デートの年上のワタシに堂々とキール・ロワイヤルを勧めたり。ほら伊丹十三さんの名著「女たちよ!」を読んで正しいスパゲッティをご馳走してくれたりも。

M:そうそう、その本の「血よ、したたれ!」でローストビーフに言及してたんですよ伊丹氏は。ところが「ロースト・ビーフとは血のしたたるべきものなのだ」の一点張りで詳しいルセットの言及は無く、ホース・ラディッシュやポテト・イン・ジャケット(ベイクドポテト)には触れてはいるもののちょっと情報量不足で。

F:お家にガスオーヴンがあったのよね。貴方の小学生の頃にはそれでお母様がマカロニグラタンやカスタードプリンを拵えてらしたとか。

M:’60年代半ばに一念発起して知り合いと一緒にお料理教室に通い始め、オーヴンや中華蒸籠を買ったんですよ。それらを使った母の数少ない洒落たレパートリーでしたね。ところがそれ以上進歩せず、オーヴンも宝の持ち腐れだしここはひとつと僕が一念発起したわけで。そこで手にしたのが檀一雄氏のこれも名著「檀流クッキング」です。だから基本的な僕のローストビーフのルセットは檀氏の影響が強いかも。

F:…ねぇ、もしかして貴方の根っからのお料理好きは他ならぬお母様に美味しいものを召し上がっていただきたいって思いから始まったんじゃないの?檀さんもお若い頃に幼い妹さんたちのためにお台所に立ったのがそもそものきっかけって書いてらしたし、ワタシだって母を亡くした後に通いの家政婦さんと一緒に父のためにって気持ちで及ばずながらも。やっぱりお料理って誰かのためにこそってそういうモチベーションが無いとやる気が出ないんじゃ…。

M:…残念ながら違いますね僕の場合は。まず母自身それに僕の小学生の頃に亡くなった祖母もお世辞にも料理が上手でなかったし住込みの家政婦さんもバラつきが少なくなくて。だから外食で食べた美味しいものを何とか自分の手で家でも再現したいって一心でキッチンに立つようになったんで、あくまでもボク自身がオイシイ思いをしたかっただけですから。だから母に美味しいわなんて誉められても言い返してました…オレが食べたかったものを作ってお裾分けしただけですよってね。

F:…もう、ホンットーにカワイくない子だったのねぇアナタって…まあたとえ口先ではそう言ってても本心は違ったんでしょうけど。そうでなければ十年以上もたったひとりで何一つものもおっしゃらないお母様の介護を付きっ切りでだなんて…お話を戻しましょ。お肉はいつも同じお店で買ってらしたのよね、銀座の。

M:そう、昨年隣国の大統領が来日し、総理の案内でR瓦亭のオムライスとハシゴしてすき焼きを召し上がった三丁目のY澤です。あそこの精肉売場にあらかじめ黒毛和牛のランボソを6〜700gと注文しておいて。味や肉質はもちろんランボソって直径5〜6cmほどの部位だからそれくらいの目方でも家庭用オーヴンで作るのにちょうどのサイズなんですよ。

F:それじゃあいよいよアレ!キュイジニエ(Allez!Cuisinier)ね。昔のTV番組じゃキュイジーヌって間違ってたけど。

M:まず肉はタコ糸で形を整えるように縛ります。亀甲縛りでなくても大丈夫。アセゾネしてヘット(牛脂)でリソレとお決まりのプロセスで、一旦肉を取り出したフライパンで玉葱、人参、セロリのミルポワをスェエして真ん中を空け肉を戻して予熱した180°Cのオーヴンでロティール。時々向きと天地を返しながらアロゼして、15分経ったら竹串を刺して唇で中心温度を確認し、問題無ければ肉をアルミホイルに包み別の鍋を被せてルポゼします。で、切り分けるのは当然じゅうぶんに肉汁が落ち着いてからで。

F:リソレ、アロゼ、ルポゼって塊のお肉を調理する時のお決まりのプロセスね。ねぇ、そうすると伊丹さんのご本の「血よ、したたれ!」ってちょっとおかしいんじゃない?

M:そうですよね、したたるのは血ではなく肉汁のはずだし、それもじゅうぶんにルポゼしたらそんなことは…第一切り分けてしたたっちゃったらそれは失敗だと思いますよ…肉汁がしっかり落ち着いていればね。これはハンバーグなんかでも同じです。鉄板にのせて熱々を持って来て、ナイフを入れると肉汁が溢れ出すなんてのを売りにしてる店があるけど勘違いも良いとこで。

F:次はソースね。前にご馳走になった時、どこかしら和風の味わいがしたの。お醤油を隠し味に使ったのかしらと思ったけど…。

M:さすがお姉様、でもそれだけじゃないんですよ。まずミルポワを取り出したフライパンをドライ・シェリーでデグラッセします。これが秘訣で無添加のフォン・ド・ヴォーかヴォライユを加え戻したミルポワを煮出しアクと脂を取り去り、パッセしてエキュメしグレイヴィー・ソースの完成。おっしゃるとおり仕上げに濃口醤油を隠し味にほんの二〜三滴。これも不可欠のレフォール=ホースラディッシュはすりおろして白ワインヴィネガーかレモン汁を加え変色を防ぎ良く混ぜて辛味を立たせます。ホースラディッシュはこと牛肉に関する限り本山葵の代用品なんかでなく唯一無二の存在です。

F:あの和の感じはシェリーだったの…そう言えばドライ・ヴェルモットと合わせたバンブーも日本酒みたいな風味のカクテルよね。付け合わせはやっぱり定番かしら…ベイクドポテトとキャロットグラッセにたっぷりのクレソンで。

M:ポテトはロースト・ビーフの出来上がりから逆算して下半分をアルミホイルで包み十文字に切れ込みを入れてオーヴンの奥に置いて。キャロットグラッセはお姉様も手の内に入れてらっしゃるでしょうから省略で。

F:ありがとうございました。ところで前にS路加国際病院に入院した時、病棟No.1てアナタが勝手に太鼓判捺してたナースのひとにこのロースト・ビーフを教えて感謝されたんですってね。

M:そうだったんですよ。ちょっと女優の波瑠似だったけど、リハビリでやっと歩けるようになった日に「一歩前進、二歩後退だねぇ」ってボヤいたら「違います、一歩後退、二歩前進ですよ」って励ましてくれて。休日に友だちと作って今ひとつだったって言うんでレシピをコツとして教えたら「すご〜い、本職のシェフなんですかぁ」って感心されました。ところが翌年、再入院したらいささかショックを…。

F:あら、何があったの?

M:いや名札の姓は変わってなかったんですけど、左手薬指に光るものが。彼女も視線に気づいたのか年度末で寿退職なんですって。お相手は地方の病院の若先生で、しばらくはそちらで仕事も続けますと…でもみんなにやっぱりねと言われますって苦笑いしてました。まあロースト・ビーフが結婚祝いだったみたいなもので。

F:ふふっ、年甲斐もなく娘よりもずっと若い女性に鼻の下を伸ばしてるから。でもキレイな看護師さんの落ち着き先ってだいたいそういう途なのかしらね、やっぱり…。

(Fin)