沢煮鍋〜冬の夜の基本的しあわせ。

Masculin:…というわけで、暖冬とは言うもののそれなりに寒い日が続く今日この頃ですから、じんわり暖まる沢煮鍋はいかが?

Féminin:あら、結構ね…そう言えば何度もご馳走になってるけど詳しいレシピを聞いてなかったわ。と言っても結局名シェフのアナタのお手をわずらわせるんですけどね(笑)。

M:えぇ、大昔からとっくに慣れっこですから…人を鍋奉行にまつり上げといてご自分は食い気一方でね。

F:あらでも後片付けはちゃんとやってますでしょ?近頃の誰かさんはすっかりもう弱くなっちゃって少しお酒を召し上がったらもうヘロヘロなんだから…昔はどれだけ呑んでもしっかりし過ぎで、私ともども重大な告白を期待してたウチの父も拍子抜けさせて。

M:また大昔の情けない話を…そりゃあ買い出しから仕込みも一手に引き受けてるんだからそれくらいは…まず鍋の出汁は鰹節と昆布をしっかり煮出して八方出汁を引き、塩、薄口と濃口醤油、酒、本味醂で吸い物よりやや濃い目に調味します…ほら、あの今や東京から姿を消してしまった元祖うどんすきの美々卯の出汁のイメージで。こういうところで手を抜いたら台無しです。

F:昔はきちんと引いた鶏ガラのブイヨンと半々に合わせたんじゃなかったの。

M:もちろんそれでも可ですけど最近は少ししつこく感じるんで鶏ガラはカットで。肉は豚バラ肉の薄切りを一度湯通ししてから細切りにし、卵も極細の錦糸玉子で…あ、豚バラを湯通しした後のお湯も捨てずにアクと脂を濾した後、冷凍にでもして保存してくださいね、SDGsとかですから。

F:ハイハイ、さてお野菜よね。何て言っても沢山の種類のお野菜をたっぷりとれるのが沢煮鍋の一番の良さですものね。

M:その通りで、一応一通り並べますけど、時季外れなら省略してください。全て細切りで

 牛蒡(笹掻き)、金時人参、筍、椎茸、独活、長葱、黄韮、切り三つ葉、この8種が基本。

 独活が無ければ大根かセロリを、また水煮なんか使うくらいなら筍もカットで。だから独活と筍の出会う春にこそ食べるべきかも。意外に大事なんですけど、野菜だってきちんと手入れした菜切り包丁か牛刀で丁寧に切りそろえると格段と味に差が出るんですよ。

F:ハイハイ、だから「〽包丁一本さらしに巻いて」引っ越してらっしゃいってずっと言ってるのに…心臓も悪いんだし。

M:もう、またそれを…肉に続きこの順番で入れて歯ごたえが残るくらいにさっと煮て、最後に錦糸玉子を散らして。取り分けたら白黒どちらかの胡椒をペッパーミルガリガリと挽きかけてどうぞ。

F:その他の薬味はお好みで良いわよね?

M:えぇ、ボクは酢橘を一絞りしますし、一味でも七色でも粉山椒でも柚子胡椒でもお好きなように。特別な材料は無くとも日常的な材料だけで作れるのが良いところで…まあ猟師が沢で手持ちの塩漬け肉と干し野菜で拵えたのがルーツだそうですから。

F:締めはやっぱり稲庭うどんが一番でしょ。

M:そうですね。仕上げに少し具を残しておいて一緒にすすり込めるから細い稲庭うどんがベストです。素麺ならにゅうめん風にも。そもそもこの鍋、半世紀も前に映画評論家の荻昌弘氏の名著「男のだいどこ」で知ったんですよ。

F:荻さんて本職の映画より食べものの本ばかり出してらしたわね…ほら、上野の文化会館の演奏会でお見かけして、その後神田のEってフレンチへ行ったらあちらもご家族でいらしてて。

M:そうそう、’76年ロンバール指揮ストラスブール・フィルの後でした。沢煮椀は知ってたけどそれを同時進行で煮ながら食べるんだから他の鍋物にも応用出来ますよね。まぁ葱鮪鍋なんかも同じで。

F:さっそく今晩にでも用意しましょ。お酒は何が?

M:もちろん日本酒が良いけど、アルザスリースリングなんかも良い相性ですよ。もともとお姉様の好みでしたよね。

F:さすがに覚えてらっしゃいますこと、それじゃあお鍋の支度は不肖ワタクシがしておきますからお酒その他はよろしくね…。

(Fin)