In Memoriam Seiji Ozawa.

Féminin:丸一日経ったけど、まだ気持ちの整理が…。

Masculin:そうですね。確かにここ二〜三年の松本でのお姿を見るにつけ、我々としても覚悟はしていたものの、いざこの報せを聞くと…。

F:でも私たちが積極的にクラシックを聴くようになった半世紀ほど前はちょうどボストン響の音楽監督に就任なさった頃だったのよね。

M:そう、だから「世界のオザワ」と持ち上げる向きがあった一方、その十年以上前のいわゆる「N響事件」が尾を引いていたのか妙にネガティブなことを述べる連中もいましたからね。音楽やオーディオ好きの某剣豪作家なんかは「洟垂れ小僧」呼ばわりしてましたから。またその当時は旧日本フィルの分裂騒動もあったりで…今や知る人も少ないのかなぁ。

F:あの時は二つの放送局からの援助打ち切りで日フィルが存続の危機に立たされて、またちょうどそのタイミングで小澤さんが確か当時の史上最年少で芸術院賞を受けて授賞式にお見えになった壇上の昭和天皇に直訴しちゃったのよね、「陛下、日フィルを助けてください!」って。

M:当時新聞も社会面トップでセンセーショナルに扱いましたけどね…それはともかく小澤さん本人はボストン響とサンフランシスコ響をしばらく掛け持ちし、日フィルも分裂はしたものの半数ほどは自ら集めたスポンサーを頼り新日フィルとして再出発して、まさにシュトルム・ウント・ドランクの日々だったんでしょうね。まあ亡くなったばかりで各方面が昔のこととは言えそういうデリケートな話題に触れないのもやむを得ないかもですけど。

F:ねぇ、前もお話したけど、貴方が初めて聴いた小澤さんの演奏会は’73年暮の新日フィルとの第九だったんですって、それも中野サンプラザで。

M:そうだったんですよ、僕は10代、小澤さんもまだ30代で。ほら新しいホールが出来るととりあえず出かけてケチをつけてたんで…お姉様との初デートのカラヤンベルリン・フィルNHKホールも同じ年で。でも輪をかけてヒドいホールでしたね、サンプラザってのは。

F:NHKホールにもずいぶん文句をつけてたわね。まるで響かないとかバランスが悪いとか。

M:まあサンプラザはその後クラシックに使われることがほとんど無くなったから二度と足を踏み入れませんでしたけど…でも忘れもしませんね、第1楽章が終わったところで小澤さんと顔を見合わせたベテランコンマスのルイ・グレーラーが渋い顔で首を横に振ったのを…まあ当日は音合わせだけで即本番だったんでしょうから。演奏自体も分裂後日が浅くてトラばかりだった新日フィルの限界を感じました。あとその前後だったけど、営団地下鉄(現・東京メトロ)日比谷線に乗ってたら六本木駅から小澤さんがお一人で乗ってらしたことが。ワワワッて思ってるうちに僕の降りる広尾駅に着いたんでそれっきりで。

F:私は’75年6月に文化会館でサンフランシスコ響との公演を聴いたのが初めての小澤さん。「悲愴」がメインで父と一緒だったけど…父は元気だった頃の母と旧日フィルでも何度か聴いてたみたいで、やっぱりこのレヴェルのオケが彼には必要だし「悲愴」第3楽章のこの勢いをずっと保ち続けてもらいたいなあなんて言ってたわ。

M:最初にご一緒したのは同じ文化会館の新日フィル定期で’76年のクリスマス、「大地の歌」と石井眞木氏の新作「モノプリズム」の日本初演でしたね。あの晩は忘れもしません、二重の意味で。

F:ねぇ、「大地の歌」でいきなり五十嵐喜芳さんがまさかの日本語で「〽黄金の盃に!」って歌い始めた時はビックリして椅子から飛び上がったアナタと顔を見合わせちゃったわよね。また後半の「モノプリズム」の鬼太鼓座を交えた迫力ったら。

M:まあ歌詞の件はともかく小澤さんの強力な統率力をまざまざと知った会だったかと。また同じ年のザルツブルク音楽祭で恐らく初顔合わせだったシュターツカペレ・ドレスデンとのブラームス1番も忘れ難いですね。FMで一度聴いただけなんですけど一期一会の化学反応みたいで。

F:うん、あれは私も良く覚えてるの。キッチンで洗い物してたらやっぱり書斎で聴いてた父がオーイ!と珍しく大声で呼ぶんで駆けつけて第2楽章からそのまま一緒に。ドレスデンの来日公演も聴いてた父があの古風でかしこまったオケをこれほど燃え立たせるのは、いや大したものだよさすがに世界のオザワだって。

M:正規音源が発売されたら即飛びつくんですけどねぇ…またちょうどその頃だったなあ、某誌でイタリア留学中のさる音楽家の方が興味深いことをおっしゃってたんですよ。イタリア人の音楽愛好家が例えばベートーヴェンブラームス交響曲のLPを求めに出かけ、店頭にはベームカラヤンと並んで当時イタリア期待の若手アバドの盤があると。するとイタリア人はどうせならと我らの希望の星アバドのを買うんですって。ところが日本人は店頭で小澤のと並びベームカラヤンのがあると、どうせならと定評あるベームカラヤンを選んでしまうと。その辺りの意識を少し変えてみてはくださいませんか日本の音楽愛好家の皆さんって…。

F:ウ~ン、確かにその頃の私たちもそんな判断をしがちだったかも。実演で小澤さんの活躍は十二分に知ってはいてもいざレコードを買うとなると…。

M:まあまだまだクラシック音楽は輸入文化という意識の強かった日本人ならではの弊だったかもしれませんけど、当時大いに赤面したものでした…話が前後しますけど、「ボクの音楽武者修行」の単行本、お貸ししたままでしょう。

F:うん、そう言えば手元にあるのは昔アナタからお借りしたのよね、おおば比呂司さん装幀の音楽之友社版。

M:やっぱりね、あれも半世紀前、近所の古本屋で見つけて。ほらあの当時は小田実「何でも見てやろう」の影響で若者の海外単身渡航記がちょっとしたブームになって、小澤さんのあれもかなりの部数が出たようで。それでお貸ししたっきりだから同じ古本屋でまた買い、また人に貸しては戻って来ずの繰り返しで今持ってるのはさて何冊目なのかなあ。

F:それから’80年代はボストン響との来日が何度かあったけどすれ違いだったわね。’90年代になってからはまた。

M:えぇ、’92年の第一回サイトウ・キネン・フェスティバルはチケットが取れず諦めたけど、僕は翌年春に新日フィルと「ファウストの劫罰」、秋はウィーン・フィルとの初来日でマーラー4番を。

F:私はその年にあの人と一緒に松本で「火刑台上のジャンヌ・ダルク」を観たの。彼と出かけた演奏会も小澤さんの実演もあの時が最後だからもう今年で三十年…。

M:…僕は翌年、ボストン響とのベルリオーズ「ロメオとジュリエット」も聴きました。今更ながら声楽を伴った大がかりな作品のさばき方の絶妙さこそが小澤さんの美質だったと感じましたね。それと勿論緻密な表現と。それから’98年にドビュッシーペレアスとメリザンド」が予定されていたんですけど長野冬季五輪の閉会式で第九を振った小澤さんが風邪をこじらせてキャンセルで…ご一緒するはずだったのに。

F:その後は’00、01年お正月のサイトウ・キネンオケとのマーラーね。二年ともお母様をお連れしたんでしょ?

M:えぇ、新年早々ひとりぼっちで家に放っておくのも気がさしたんで…。

F:ウソばっかり、お連れすればチケット代を持っていただけるからでしょ(笑)。

M:イヤ、ハハァ…まあ’00年は「復活」で壮大な曲を小澤さんが指揮するなら聴きたいわって本人も言いましたからね。で翌年の9番も吉例で。

F:私も行きたかったけど、やっぱり八十過ぎの父を置いて出るのも…でも’02年元日のニューイヤーコンサートをTVで観てて、父が「一昨年の復活、聴きたかったなぁ」ってポツリともらしたんで後悔したけど…。

M:でもその「復活」もでしたけど’01年の9番は一層見事でしたね。あぁ小澤さんは幾星霜を経てこの境地にまで到達したのかと感慨しきりでした。CD化されているから、まずは偲んで聴くべき一曲かと。

F:ねぇ、貴方は’75年にクーベリック、’85年にバーンスタインでどちらも歴史的名演て語り草のを現場で聴いてるのよね。比較って失礼だけどどう?

M:それについては興味深いエピソードがひとつ。’70年にバーンスタインがNYフィルと9番を演奏した晩、文化会館の客席に武満徹「ノヴェンバー・ステップス」で出演した薩摩琵琶の鶴田錦史さんがいらして、その横の通路に小澤さんが腰掛けてらしたと。で、終演後小澤さんは誰にともなく

「こんなおっかない演奏、オレには出来ないよ…」と呟いていたと。

F:それはやっぱりレニーならではの全身全霊を打ち込んでマーラーの美も醜も洗いざらい全て白日の下にさらけ出すってやり方のことかしらね。

M:おそらくね。でもレニーの演奏は確かに金字塔ですけど、誰もが必ずしも同じ手法でしかマーラーの本質に近づけないわけじゃないんで。その晩から三十年経った場所も同じ文化会館で、小澤さんは自身独自の9番を築き上げたと思いますよ…おっかなくはまるでないけど。特にレニーが「あらゆる宗教を超えて禅の境地」と評した終楽章はサイトウ・キネンの清澄な弦の響きを得て、まさに浄化されたその境地に達していると思いますね。

F:ほら、’16年にサントリーホールでメータとお二人で交互に指揮台に立ってウィーン・フィルを振ったでしょ。カラヤンバーンスタインも最晩年に同じアイデアを持っていたのよね。あの時にメータが

「僕はモントリオール〜LA〜NY、セイジはトロント〜SF〜ボストンと、似たルートを競い合うように辿って来たんだよ」って誇らしげに語ってたのが印象的だったわ。共にアジア出身のお二人がカナダ〜西海岸〜東海岸と並走しつつキャリアアップしてきたのが。小澤さんも

アバドを加えた僕等三人は若い頃、競い合ってレパートリーを増やして来たんだよ」って。そのポストカラヤン三羽烏と言われた三人も残るはメータお一人で…。

M:そのメータもですけど、小澤さんは還暦過ぎた頃からしばしば 

「僕の一生は西洋クラシック音楽の伝統と無縁のアジアに生を享けた人間が、どこまで音楽を極めることが出来るかという生涯を賭けた実験なんです」とおっしゃってましたけど、その言葉は一愛好家に過ぎない我々にも重く響きましたね。そして今、小澤さんの姿はその志を越え、遥かな高みに存すると固く信じます…。

 

(承前)