クラウディオ・アバド没後10年〜幾多の思い出とともに。

Féminin:早いものね、クラウディオ・アバドが亡くなって今日でちょうど十年…。

Masculin:そう、ふたりでご一緒出来たのは’00年の「トリスタンとイゾルデ」だけだったけど…初来日はお聴きになったっておっしゃってましたよね、’73年春にウィーン・フィルと。

F:うん、ウチの父が一緒に行こうって。私は大学一年だったけど、ベートーヴェンプロで「プロメテウスの創造物」序曲に8番と7番だったわ。あの頃は父が男のひとからの電話をことごとくシャットアウトしちゃう罪滅ぼしのつもりなのかあちこち連れて行ってはくれてたの…まあ父娘二人きりだったし。

M:お父様としてはあちこち連れ出して見せびらかしたかったんじゃないかなあ、一粒種の見目麗しいお姉様を…でも、そのお父様の鉄壁のガードをかいくぐって同じ年の秋には僕が箱入りのお姉様を初デートでカラヤンベルリン・フィルに連れ出したんですよね、いや我ながら蛮勇を振るったもので。

F:何だかワタシがまるで猛獣みたいね…でも同じ年に両フィルハーモニカーを聴けたなんて贅沢だったんだわ。父と貴方に感謝ね。

M:考えてみたらその二大オケが同じ年に来日したのは初めてだったんですね…最近じゃあ珍しくないけど。僕もその時のアバドはTVで観てたけど、演奏自体よりも覚えてるのは終演後の大歓声にビックリして目を丸くしてたアバドの表情で(笑)。

F:そうそう、私も。何年か後のインタビューでアバドが最初の日本公演の思い出として「いやあ黒澤明作品のサムライが一斉に叫んだのかと思いましたよ」って言ってるんで、正直な人だなぁって。でも父は辛口だったわ…どうも頼りない若者だなぁって。手練れ揃いのウィーン・フィルに乗っかっただけみたいでもう一つ主張が弱いなとも。

M:初来日はそういう印象が強かったようで…ウィーン・フィルがその前回’69年に来た時にはかの剛腕ショルティだったから比較されたのも無理ないかなぁ。お姉様はどう思われたんです? 

F:ワタシは素直にステキだなぁって思ったわ、指揮姿も音楽も力づくでなく颯爽としてて。髪の毛もサラサラで同じ頃の小澤征爾さんほど暑苦しくなかったし(笑)。

M:当時まだ三十代でしたしねアバドは。でも意外にもその後の来日は少し空いて、次は’81年のミラノスカラ座の今や伝説的な初来日で。

F:貴方は行ったのよね、初任給はたいて…クライバーの「オテロ」とアバドの「セビーリャの理髪師」。私は前年のウィーン国立歌劇場ベーム指揮の「フィガロの結婚」でお腹いっぱいだったけど。

M:名うての食いしん坊さんが本当かなぁ…えぇ、その二晩のS席二枚で初任給のほぼ半分でしたからね。残りはキレイに呑んじゃってその後何年も母から責められました、何もプレゼントしてくれなかったわって。でもどちらも圧倒的な舞台でしたよ。特に「セビーリャ〜」ではアバドの指揮もだけどJ.P.ポネルのまさに才気煥発な演出。

F:舞台は素晴らしかったんでしょうけど、お母様のおっしゃるのもごもっともだわ、一貫して自分ファーストだったんだからアナタって…私に対しても。ずっと後にお母様が倒れられたその日までね。私は’83年にロンドン響とをまた父と一緒に。バルトーク中国の不思議な役人」に「幻想交響曲」だったけど、今度は父も絶賛だったわ。アバドもだいぶ鍛えられてオケを思うがままに引き回せるようになったようだなぁって。

M:その次は’89年ウィーン国立歌劇場だけど、僕はオペラはパスでウィーン・フィルとのモーツァルトK.201とブルックナー4番の日。充実した一夜でしたね。ブルックナーの冒頭でホルンのヘーグナーが一瞬音を外しかけたのにはヒヤリとしたけど。

F:…私はその少し前からあの人と暮らしはじめていたから、記念に何か行きましょうって…本当は「ランスへの旅」が観たかったんだけどワグネリアンの彼に「ヴォツェック」で押し切られちゃったの…手応えは確かだったけど重く暗い気持ちの帰り道だったわ。

M:お二人の門出に「ヴォツェック」って、何だか縁起でもないみたいで…でも演奏は見事だったんでしょうね。そうだ、ちょうどその頃、「アバドのたのしい音楽会」って絵本が出たでしょう。

F:そうそう、「ヴォツェック」の少し前に彼が買って来たの。アバドが7歳でドビュッシーの「ノクテュルヌ」を聴いて指揮者を志したってくだりは良く覚えてるわ。

M:僕も一冊買ったんですよ、クリスマスプレゼントに。

F:あら、どなたに?どなたか私の知らない女の方。

M:もちろん…と言っても小学生の姪でした。CDラジカセが欲しいって言うんで「展覧会の絵」「動物の謝肉祭」などの親しみやすい曲とその絵本をセットで。

F:ふ~ん、姪御さんはその後音楽好きになったの?

M:いや残念ながら…心の深くまでは響かなかったみたいで。叔父の心姪知らずでまあ「論語」の宰予ですね、所詮は朽ちた木で。

F:ずいぶん手厳しいわね、お昼寝好きだったのかしら彼女は。でも道筋をつけてあげても誰もがその道を歩み始めるとは限らないのは仕方ないわ…アバドその人みたいにね。その次は’92年のベルリン・フィルとのブラームス・ツィクルス。二人でムローヴァとのヴァイオリン協奏曲と交響曲第2番を…ほら当時は知らなかったけど、ムローヴァにはもうアバドとの間にお子さんがいたんですってね。私も家庭のあるあの人と暮らしてたから、知ってたら居心地が良くなかったかも…それからまた’94年のウィーン国立歌劇場ね…あの時は残念だったわ。

M:…直前の夏にあの方が旅立たれたんでしたね。

F:うん、前の年から具合が悪かったんだけど楽しみにしてたの、四演目全て行こうって…貴方は観たのよね、全部。

M:えぇ、アバドの「フィガロの結婚」「ボリス・ゴドゥノフ」に何と言ってもクライバーの「ばらの騎士」とシルマーの「こうもり」。どれも生涯の宝だけど、「フィガロ〜」は’91年のモーツァルト没後200年にアン・デア・ウィーン劇場で出したジョナサン・ミラー演出の回り舞台を駆使した名舞台で、「ボリス〜」もアバド直々に声をかけたアンドレイ・タルコフスキー演出のこれまた見事な舞台で。ちょっと脱線ですけど、その「ボリス〜」の晩に妙な思い出も。

F:あら、なあに。作品自体の力では「ボリス〜」が一番印象的だったっておっしゃってたわよね。またそれをフルに引き出したアバドの力も。

M:えぇ、ところが毎公演で必ずロビーで我こそはメインスポンサーなるぞとふんぞり返ってる薄味ビールで業界首位に立ったAビールのH.H.社長がいささか目障りだったんですよ。またそれで当夜のNHKホールの客席には二階席最前の貴賓席にドット(水玉)柄ネクタイのK.T.元総理夫妻とH社長、一列後ろにはロマンスグレーの人気ニュースキャスターC.T.氏が…幕間には皆さんロビーで仲良く談笑も。

F:Cさんて生放送の本番直前まで劇場なんかにいてスタジオにあたふたと駆け込むのもしばしばだったとか…。

M:そうそう、で数日後にC氏のニュース番組見てたらあろうことか

「…外来オペラの公演が盛んですが、本当に観たい人達がチケットを取れず、招待客ばかりなのは困ったもの」ですとのたまって!ちょっと待ったアンタ、あの席を自分で電話かけて入手したとは断じて言わせないぞってTVに向かいツッコみましたね。

F:狙ったチケットは電話をかけまくって決して逃さなかったアナタとしては決して許せない発言ね(笑)。その次は’96年ベルリン・フィルとのマーラー「復活」だけど、お誘いいただいたのにごめんなさい。実家に戻ったけどまだどこにも出かける気になれなくて…特に演奏会だと色々思い出しそうで。父にも昔から気に入りの貴方となら出かけたらどうだって勧められたんだけど…。

M:ご一緒出来なかったのは残念でしたけど、演奏はこれまたもう素晴らしい出来でした。ベルリン・フィルの圧倒的な能力とそれに一歩も引かないスウェーデンのコーラスの優秀さで。特に終楽章でシルヴィア・マクネアーのソプラノが合唱の上に重なり延びる箇所は、ほんとに天上からまばゆい一筋の光が射し込むがごとしでした。三種あるアバドの録音をはるかに上回るほどのね。そして’00年の「トリスタン〜」でようやくご一緒出来て。

F:あの頃までには貴方のおかげで出かけるのももう平気になってたから…ところが楽しみにしてたら夏にサルデーニャ島でバカンスを愉しんでたアバドが倒れて緊急手術を受けたってニュースが入って来て…それでも予定通りだったけど…。

M:終演後にカーテンコールで舞台に上がったアバドの姿を見て、我々みんな息を呑みましたからね、別人のように痩せ細っていて。正味4時間弱の大曲を良くもあの身体で振りおおせたものだと。

F:でも新鮮な「トリスタン」だったわ。舞台と演出はそれほど特徴的じゃなかったけど、アバドの指揮は透明で繊細で…ねぇ、あの時の「トリスタン」はベルリンで全曲録音されたんじゃなかったの?

M:そうなんですよ、アバドがインタビューで言ってたんですけど、ベルリンでの演奏会形式上演をライヴ収録して来日公演に合わせてリリースの予定だったんだけど、ドイツ・グラモフォンの業績悪化でお蔵入りしてそのまま。まあいわゆる「大人の事情」でしょうけど、あの公演を思い出としてる我々なんかには残念の極みですね…。

 

(承前)