クーベリックの「わが祖国」(’91年東京ライヴ)〜良心の指揮者の最良の遺産。

Féminin:また作曲家のアニヴァーサリーでスメタナも生誕200年ね。ところでラファエル・クーベリックは何回来日したの? 

Masculin:’65年と’75年にバイエルン放送交響楽団と、あとはこの’91年のチェコ・フィルとの三回だけなんです。それ以前の’62年にNHK交響楽団が呼ぼうとしたとも…ついでですけどその時のクーベリックのキャンセルで急遽小澤征爾さんがN響の指揮台に立ったことがかの「小澤N響事件」の遠因になったとか…まぁそれはまた別の話で。

F:名声の割に…って感じね。でも私は幸運だったわ、この「わが祖国」を会場のサントリーホールで聴けたんだから。

M:僕も行きたかったけど前日に東京文化会館ビシュコフとパリ管の「ファウストの劫罰」があったんで。それに前年の42年ぶりにチェコ・フィルに復帰した時の同じ「わが祖国」を中継で聴いて、少しクーベリックにブランクの影響を感じたんですよ、ほらその前しばらく引退状態だったから。

F:そう、あの人も同じことを言ってたの。でも’75年の来日でもこの曲を聴いてて、やっぱりもう一度聴きたいから行こうよって…貴方はその時、マーラーの9番で振り回されたんでしょ、会場の変更とかで。

M:そうでしたね…でも結果として名演に接しましたから。

F:どういう経緯だったの?

M:予定ではチケットを買ってた初日がマーラー日比谷公会堂、残りは文化会館だったんですけど、来日直後にクーベリックが日比谷を見てここでは大編成のマーラーは出来ないと急遽会見を開いて。

F:ウ~ン、やっぱり狭いから?

M:そういうことで。実は我々も日比谷でマーラーを万全に演奏出来るのかなぁって心配してたんですけど、クーベリックは’65年に文化会館で演奏していて日比谷も同規模のホールと聞かされていたらしく、ところがいざ訪れたら客席数はともかくステージは狭いし弦楽器奏者が十分に腕を引くことも出来ないんで、最善の策としてモーツァルトベートーヴェンの最終日とプロを入れ替えると。「私の音楽家としての良心が許さない」とまで言ってました。もっともそのことでクーベリックに対して批判的なことを言う人間もいたらしいんですけど…ジャーナリズム関係で。

F:縁なき衆生だったんでしょ…でも確かに日比谷は古いし狭いけど、戦前から大編成の曲もずいぶん演奏されてたんでしょ?

M:えぇ、マーラーでは6番、戦後ですけど’50年に声楽も含む8番を山田一雄氏が本邦初演してますからねぇ。

F:あの「千人の交響曲」ね。演奏家だけでホールが一杯になりそうだわ、会場にお客さんが入ったのかしら(笑)。それでどうしたの、アナタは。

M:朝刊で告知を見て、学校サボってチケットの交換に行きました。で、無事に変更になった最終日のマーラーを聴けました。

F:その年って受験生だったんでしょ。ホントに学業より自分の興味優先だったのね…その春のベームウィーン・フィルも、それから音楽以外の他の諸々も…年上なのにそれにお付き合いしちゃった私も責任を感じておりますけど。

M:ハハァ面目ありません。でもそういう諸々こそがわが生涯のかけがえのない財産と信じていますから…少々回り道してもね。お姉様にも感謝しておりますよ。

F:そのお年でそう言い切れるって幸せね…お話を戻しましょ。一緒に暮らしてた家にあの人がクーベリックとボストン響のLP…オレンジ色のカートンボックスのね…を持って来てたの…父のコレクションには「ヴルタヴァ(モルダウ)」しかなかったから、それで予習して当日出かけて。

M:全六曲、退屈なさいませんでした?

F:うぅん、全然。「高い城」の2台ハープの冒頭から、「ブラニーク」の結尾まで息もつかせないってこういうことねって。あの人も’75年の時よりずっと感動的だったよって。特に激烈な「シャールカ」と牧歌的な「ボヘミアの森と草原から」をはさんで最初の二曲と最後の二曲がそれぞれ対になってる構成が手に取るように分かったわ。連作交響詩というより大交響曲みたいに。

M:僕も中継で聴いてて同じ印象でしたね。全六曲が緊密に結びついている構成を誰よりも明確にしつつ、熱気と緊張に満ちた最高の成果でした。それにほら、前年のプラハの春の時は少しクーベリック自身にブランクの影響を感じたって言いましたけどもう一つ、オケとの間にも何となくすきま風が吹いてたような気もしたんです。

F:それこそ同じ言語を使う祖国のオケだけど42年ぶりですものね…楽団員もみんな入れ替わってるでしょう?

M:恐らくね。それにクーベリックは戦後のチェコの共産化に反対して西側に亡命したわけですけど、シカゴでの苦難はあったものの概ね自由な演奏活動が出来たと思うんですよ。それに対しチェコ・フィルはようやくビロード革命で自由を得たものの、楽団員は永らく不自由をかこっていたわけで。

F:ウ~ン、そうなるとやっぱりそれぞれの心情にすきま風が吹いても不思議じゃないわね、人間だもの…あら、変なこと言っちゃった。

M:まぁ少しうがち過ぎかもですけど、でもこの春にやはりプラハの春で「新世界より」他を演奏し、お互いの理解が深まったところでのこの来日じゃなかったのかなぁ。その結果が唯一無二のこの名演で。

F:ほら、クーベリックってお父様は大ヴァイオリニストのヤン・クーベリックで、若い頃から頭角を現してナチスに追われたヴァーツラフ・ターリヒの後を受けてチェコ・フィルの常任になったけど、ナチスに迎合したってあらぬ批判を受けたんでしょ?

M:ええ、同じ頃にフランスでは1歳違いのジャン・フルネヴィシー政権下でオペラ・コミックの指揮者に就任したことで戦後長く不遇をかこつ羽目に。クーベリックも西側に亡命してフルトヴェングラーの推輓でシカゴ響の常任になったものの、地元の楽界を牛耳ってたクラウディア・キャシディって女流評論家のひどいネガキャンに遭ってわずか三年で辞任させられて。温厚な人がインタビューで「あの女!」と吐き捨てていましたからね。それでもヨーロッパに戻り、バイエルン放送響に落ち着いてからは順風満帆で。

F:昔聞いた話だけど、まだ無名の塩川悠子さんの才能を見込んでお父様の使ってたストラディヴァリを無償で提供したっていうのも私心のない誠実なお人柄がにじみ出ているわね。この「わが祖国」も何回も録音してるから、やっぱり十八番みたいな作品だったのかしら。

M:順番に挙げてみますね。

’52.12.4〜6 シカゴ響(マーキュリー)

’58.4.3〜7 ウィーン・フィル(デッカ)

’71.3 ボストン響(DG)

’84.5.3〜4ライヴ バイエルン放送響(オルフェオ)

’90.5.12ライヴ チェコ・フィル(スプラフォン)

’91.11.2ライヴ チェコ・フィル(アルトゥス) 

セッションとライヴ三種ずつですけど、当然ながらライヴはどれも感興がみなぎっていますね。

F:ほら、私はボストン響との盤で最初に馴染んだから、やっぱり安心して聴けるわ。当時クーベリックの常任就任記念で発売されるはずだったんですって?

M:えぇ、ラインスドルフ辞任後はスタインバーグがピッツバーグ響と兼任してましたけど、オケがDGと契約した関係もあってクーベリックの招聘に動いたんでしょう。ところがドタキャンで…推測に過ぎませんけどシカゴ響での不快な記憶が蘇ったのかも…。

F:でも引き受けていたら小澤征爾さんは宙ぶらりんになってたのよね…さっきアナタN響事件がクーベリックのキャンセルと関わりがあるって言ってたけど、運命の糸って確かにあるのかも…もしかしたら私たちの間にもね…。

M:…さて我々の糸はともかく、結果的に生涯最後の録音にもなったこの「わが祖国」はクーベリックとしても最高の名演であり最大の遺産であることは間違いないですね…。

(Fin)