カール・ベームのこと〜’77年3月12日を中心に。

Féminin:今日は唯一度、私たちが一緒にカール・ベームを聴いた日なのね。

Masculin:そうでしたね。あれはもう47年前。僕はその二年前’75年に同じウィーン・フィルとの来日公演も聴けたけど、運良く往復ハガキの抽選に当たって。

F:私は最後になった’80年のウィーン国立歌劇場との「フィガロの結婚」を父と一緒に。だからお互い二度ずつだったのね、ベームは。

M:’77年は二年前と違って普通に発売されて、幸い招聘元の新芸術家協会に伝手があったんで簡単に入手出来たんですよ。ただし唯一東京文化会館だった11日はさすがに到底無理で、翌12日のNHKホールの最終公演のチケットを手に入れて。その11日はFM東京でオンエアされ、CDにもなってますから良き思い出の縁(よすが)です。

F:私が忘れられないのは、一曲目のK.201の出だしなの。すごく遅いテンポで、まるで深い底を覗き込むみたいに密やかに始まって。ウィーン・フィルの柔らかな弦にも驚いたけど、あのゾクッとする凄味は残念だけど録音には…。

M:その通りですね。まだ10代のモーツァルトに相応しいかはともかく、ベーム最晩年のモーツァルト演奏の顕著な特徴だったかも。終楽章に繰り返し出る速い上行音型で腰をかがめる姿も印象的でした。「ドン・ファン」は一転ベームの年齢を微塵も感じさせない出来で。冒頭もG.ヘッツェルのヴァイオリンソロも艷やかなオーボエも雄渾なホルンも、そして空虚なコーダまで万全の一言で。

F:ブラームスの2番もすべてがあるべき姿と言う他ない演奏だったわ。ほら、前年に発売された交響曲全集は正直がっかりしたって貴方言ってたじゃない。

M:そうだったんですよ。’76年の夏前だったけど、今はない石丸電気3号店のクラシックフロアにドイツ・グラモフォンの4枚組輸入盤が山積みでした。前年の来日で1番を現場でも聴いてたし当然すぐ買ったんですけど、ところがその1番の出だしからして比較にならない緊張感の乏しさで。

F:帰国してすぐの収録だったんでしょ?

M:データでは3番だけ6月で他は5月となってましたね。まあ2番は曲想もあって1番ほどの違いはありませんでしたけど。’75年来日時の記者会見でベームは「録音セッションは疲れるから今後はなるべくライヴ収録にしたい」と言ってたんですけど、いざとなるとやっぱりきっちりした仕上がりを求めたのか…そうそう、同じ頃だと思いますけどペーター・シュライヤーが指揮を志し、ブラームスの2番をベームに直接指導を受けたいと話したらベーム言下に自分の指揮したLPを薦め「いや、飛び切りの名演じゃよ」と。次いでカラヤンにも話したら帝王ただちにピアノが2台あるプローベ室を用意してシュライヤーに指揮させ具体的なアドヴァイスを送ったと…名テノールも大感激でしたって。

F:…お人柄、なのかしらね。はっきり覚えてるのは、第1楽章からウィーン・フィルらしい豊かな弦の歌と鮮やかな管の彩りで、あぁ素敵な曲だなぁってしみじみ感じたこと。

M:僕が一番印象に残ってるのは、第1楽章再現部で沈潜してトロンボーンがコラールを奏し、チェロの第2主題が回帰する箇所で。ベームがあまり見せないようなふっとした間を置いたんです。あの瞬間は胸打たれました。実演ならではの呼吸だったんでしょうけど、前日11日の録音でもそれが確認出来ます。

F:コーダ直前のG.へーグナーのホルンソロも絶妙だったわ。終楽章もベームらしく腰が軽くならず、それでいてコーダの追い込みは鮮やかだったわね。ほら、投げ釣りみたいな動きがだんだん熱を帯びて、とても御年82歳だなんて。それでアンコールは「マイスタージンガー前奏曲で、おしまいかと思ったら続いて「美しく青きドナウ」が始まったんでビックリしたわ。

M:最終公演のサービスだったんでしょうね。ただしその直後に心配なことが…。

F:そう、貴方言ってたわね。さすがにベームの足元が怪しくなってたって。最終日でお疲れも溜まってたらしく。

M:鳴り止まない拍手に応えてのカーテンコールで、指揮台から降りる時のベームが少し勢い余ってふらついて見えて。そしたらベームが何度目の答礼をしている間に第2ヴァイオリントップで楽団長のW.ヒューブナーが隣の次席コンマスR.キュッヒルの肩をたたき、少し椅子を向こうに動かすようにと身振りで。

F:ベームがステージの出入りに第1第2ヴァイオリンの間を通路にしてて、キュッヒルさんの椅子が少しその通路側にはみ出していたんで、万が一にも躓いたりしないようにと注意したのね。キュッヒルさんも頷いてすぐ椅子をずらしたけど、楽団長さんも気働きが大変ねぇと思ったわ。それ以上にその動きにすぐ気づいた貴方にもね…お父様が同い年でらしたのね、ベームと。

M:えぇ、ご存知のようにずっと一緒には暮らしてなかったんで、たまに外で会う時なんかはやっぱり足元の段差なんかに気を使ったりしてたものですから。まあベーム同様まだまだ矍鑠(かくしゃく)としてたんですけど…はるかに長く満百歳までね。

F:お目にかかりたかったわ、一度だけでも…。でも二曲のアンコール後、フィルハーモニカーの皆さんが手を振りながらステージを後にしたあの晩は決して忘れないわ…で、演奏会の後はどうしたか勿論覚えておいでよね。

M:ほら来た(笑)。えぇ、まずNHKホールからほど近いシェ・Jに飛び込みで向かったらけんもほろろで、仕方なくでもないけど次善の策と考えてた六本木のイル・ド・フランスに。

F:アナタっていっつも受け皿を念頭に置いてるのよね。もしかしたらあの頃はワタシの受け皿もいらしたのかしら。

M:滅相もない、永遠のマドンナの受け皿なんてあるはずもないでしょう。現にずっと孤塁を守ってるんだから。

F:ふ~ん、ずいぶんつまみ食いもしてらしたってポロッと告白しちゃったくせに孤塁だなんて嘘ばっかり。でもイル・ド・フランスはあの晩が私は初めてだったけど気持ちの良い本当のビストロだったわ。ドンクの経営だったのよね。

M:えぇ、当時のシェフはこれもわれわれに思い出深い代官山レンガ屋の跡で今でも盛業の「パッション」オーナーシェフアンドレ・パッション氏で、本格的なカスレやパテ・ド・カンパーニュはあそこが日本でも最初でしょうね、半世紀も前から。実は高校の頃からあそこの一階のバーは行きつけで、フランス人のバーテンダーも顔見知りだったんですよ。

(承前)