日本ダービー雑感〜血はターフを駆けめぐる。

トウカイテイオー安田隆行騎手(’91年1月若駒ステークス)

 

Féminin:今年も無事、ダービーが終わったわね。良いレースだったわ、でもお祭りの後の一抹の寂しさが…。

Masculin:そうですね。やっぱりダービーは他のレースと一味違った華やぎがありますから。馬にとっては生涯一度だけの機会だし、関係者も特別な思い入れのある方が少なくないようで。だから昔、山口瞳氏が

「来年のダービーを勝つのはどんな馬なんだろうかと考えると、まだおいそれと死ぬ気になんかなれない」と言ってらしたのも思い出されますね。

F:「ダービー馬のオーナーになるのは一国の宰相になるより難しい」っていうのは実はあのチャーチルの言葉じゃないらしいけど、難しいのは確実なのねやっぱり。貴方が初めて観たのはやっぱり中学生の頃?

M:そうですね、リアルタイムではっきり覚えてるのは’70年タニノムーティエが勝った年。ほらその前年’69年の有馬記念で日本馬初の凱旋門賞参戦から帰国してぶっつけのスピードシンボリ菊花賞を圧勝したアカネテンリュウの壮絶な叩きあいの一騎討ちを観て即座に競馬のとりこになってたんですよ。さらにその翌’71年、ヒカルイマイが直線だけで二十頭以上をごぼう抜きにしたのも忘れ難いですね。勝つには一角十番手以内と言われていたダービーポジションも何のそのの豪脚で。

F:私はやっぱり’73年ね。断然人気のハイセイコーを伏兵タケホープが降したレース。嶋田功騎手が「ハイセイコーも俺の馬も脚の数は同じ四本だよ」て言ってそれを証明したのが印象的だったわ。当時一緒にTV中継を観てたウチの父は「いいんだよこれで。ダービーの栄光が金で買えるわけじゃないってことを証明したんだから」なんて言ってたけど…ほらハイセイコーの中央移籍のことで。ダービーの優勝賞金よりも高いトレードマネーが動いたとか。

M:その後の’90年に鮮やかな逃げ切りで勝ったアイネスフウジンのオーナーが数年後に悲惨な運命をたどったなんてこともありましたね…それにしても競馬が血のドラマだってことを今年ほど痛感させたことも少ないかなぁ。「ダービー馬はダービー馬から」って格言の象徴のようなディープインパクトキズナからの史上初父子三代制覇のかかった一番人気ジャスティンミラノを、その父キズナの二着に敗れたエピファネイアの子ダノンデサイルが抑えて勝ったんだから。

F:’79年にハイセイコーの子カツラノハイセイコがお父さんの無念を晴らして以来のドラマだったかも知れないわね。乗り役さんにもまたドラマが。

M:そう、横山典弘騎手は三度目のダービー制覇だけど、お父上の故・富雄氏はダービーを含む牡馬クラシックに縁が無かったんですよね。でも今回は和生、武史の息子二人に俺の後に続けとばかりの勇姿を見せて…また皐月賞の発走直前での回避の判断が英断だったことも証明されたわけで。近い将来の中島時一と啓之、伊藤正四郎と正徳、武邦彦と豊に次ぐ四組目の父子制覇に期待したいですね。また最年長ダービー制覇もわれわれ世代には嬉しいことで。

F:安田翔伍調教師にもまた父子のドラマがあったのね。お父様の安田隆行さんは騎手としては’91年にトウカイテイオーでこれも戦後初のシンボリルドルフとの父子制覇を成し遂げたけど調教師としてはダービーと無縁で今春引退されて。それを息子さんが最年少で勝ったんだから変則父子制覇なんて…ほら、そもそも貴方も母方のお祖母様がお好きでらしたんでしょ、競馬が。

M:そうなんですよ。聞いた話では戦前に祖母は祖父と連れ立って中山競馬場に出かけ、しばしば肩を並べてオケラ街道をトボトボと帰って来たんですって。祖父を亡くした後の僕の小さい頃もしばしばスポーツ新聞の競馬面を赤鉛筆片手に見ていて、出入りの洗い張り屋の若い衆に馬券を頼んだりしてたとか。

F:すごいわねえ、明治生まれのウマジョでらしたのね(笑)。

M:シンザンが現れたのは僕の小学二年の’64年だけど、新聞を見て「このシンザンて馬は強いねえ」と感嘆しきりだったのを覚えてます。

F:それでまた野平祐二騎手の大ファンでらしたんでしょ?

M:そうそう、それで最初にお話しした祐ちゃんとスピードシンボリ有馬記念制覇が亡くなったすぐ後だったんで、導かれるようにTV中継を観てすっかり競馬に魅せられて今日に至ると。

F:ふ~ん、それじゃあアナタ自身も競馬の血のドラマを体現してるようなものなのかしらね、お祖母様からの隔世遺伝で。

M:そういうことなんでしょうね。だから競馬は馬だけでなく関係者にも我々観ている側にとってもブラッド・スポーツなのかも。ともあれ来年のダービーを勝つ馬に思いを馳せると、いくばくかの生きる意欲が湧いて来ますね…。

(Fin)