名作「カサブランカ」のこと〜「裏声で歌へラ・マルセヰヱヱズ」?。

Masculin:初めてご覧になったのはいつ?

Féminin:うん、これははっきり覚えてるの…多分初オンエアだった’67年で中学二年の秋、NET(現テレビ朝日)の「日曜洋画劇場」だったわ。いつもの淀川長治さんの解説でハンフリー・ボガートのリックの声は久米明さんだったわね。またイングリッド・バーグマンも素敵だなぁって…もう母が入院していたから父とふたりで家で観たわ。

M:…そうでしたか。じゃあ辛い思い出につながるかなぁ。

F:大丈夫よ、もう大昔だし。すぐ横で父の専属解説付きだったから作品の時代背景なんかが良く分かったけど、前に映画館で観ていた父も一緒に観ながら良く出来た一本だなぁって改めて感心してたわ。貴方はいつ観たの。そのオンエアの時はまだ小学生よね。お母様にご一緒していただいて東宝の特撮作品ばかり観てた頃でしょう、いくらおマセでもこれはまだ早かったんじゃない?

M:いやぁもう洋画もいろいろ観てましたけどこれはさすがに…で、高校時代の’75年頃に水道橋にあった労音会館の上映会で観たんですよ。学校からも近く、同級生と溜まり場にしてた喫茶店もそばにあったんで。

F:もう知り合ってたわよね私たち。逢ってない時も学校サボってそんな溜まり場にばかり入り浸ってたんでしょ、毎日のように長電話してたワタシってマドンナがありながら。

M:図星ですね。そこを根城に神保町の古本屋とレコード店を回ったりで…お姉様って無二のマドンナがいてもふらりと流離いたくなるものだったんですよ男って奴は。

F:へぇ、それじゃあ高校の頃のそれが大人になってからのバーホッピング(はしご酒)に転じたってわけなのかしらね。

M:…その店のマスターは売れない画家で我々若造の青臭い芸術談義にも気軽に付き合ってくれたんですけど、映画好きでもあって「カサブランカ」はぜひとも観ておくべきだよと。コーヒーはお世辞にもあんまり旨くなかったなぁ…ちょっと脱線ですけどそのマスターがスパゲッティを茹でていてザルが無いのに気づき慌ててたんで、近くにあった同級生のテニスラケットを「これ使えば」と差し出したらニヤリとして

 「おい、『アパートの鍵貸します』の観過ぎだよ!」って。

F:ジャック・レモンがいかにも怪しげな手つきだったわね…でも人のアドヴァイスなんてあんまり素直に聞かなかったナマイキなアナタが珍しく素直に従ったわけ…年上のワタシにも頑固だったのに、そのマスターには心酔してらしたのね。

M:ちょっと、何かにつけて二言目には「お姉さんの意見は素直に聞くものよ」って圧をかけてきたのはどなたでしたっけ…まあそれはともかく出かけました、上映会場に。

F:その頃って「タワーリング・インフェルノ」とか「JAWSジョーズ」とか大作流行りだったけど、アナタって古い映画も好きだったから抵抗無かったんでしょうね。知り合う前の中学生の頃から名画座巡りしてたんでしょ。

M:そうですね、ボギーは「麗しのサブリナ」や「アフリカの女王」を観てたし、イルザのバーグマンも「汚名」や「誰がために鐘は鳴る」なんかを。ルノー署長のクロード・レインズも「汚名」に「アラビアのロレンス」でウガーテのピーター・ローレも色々。ところがその時、中盤のあるシーンで愕然としたんですよ。

F:あら、なあに。愕然とするようなシーンて…あ、もしかしたら「ラ・マルセイエーズ」の場面?

M:さすがお姉様、ご明察。いや小学校入学から十年以上も経ち、蒙を啓かれるとでも言うかそれとも冷水を浴びせかけられたのか…。

F:…あのシーンは旅券の譲渡の件でリックと会っていたラズロ(ポール・ヘンリード)が不調に終わって部屋を出ると、フロアでシュトラッサー少佐(コンラート・ファイト)を中心にドイツ軍将校たちが「ラインの護り」を大声で歌っていて。

M:そう、それで業を煮やしたラズロは手持ち無沙汰のバンドに近づき「ラ・マルセイエーズ」を演奏してくれと…無言でうなずくリックを見てバンドは演奏を始め、ひとりテーブルにいたイルザは不安な面持ちを隠せないもののやがて店の客全員が唱和するに至って将校たちは沈黙し、大合唱と「フランス万歳!(Vive la France!)」の歓呼がこだまする中多くの客がレジスタンスの闘士ラズロを讃えるという名場面ですよね。

F:感動的なシーンだけど…アッ、もしかしたら貴方の通ってた学校では小中高と式典のつど、日本とフランスの国歌を全校生徒で歌ってたんじゃなかったかしら?

M:またまたご明察。小学一年生から式典のたびに壇上には日仏両国々旗が掲揚され、両国々歌を続けて斉唱してましたから我々…来賓に駐日フランス大使を迎えてね。そのアイロニーに気づいてしまったんですよ。いや本当にあのシーンを観た時はショックでしたねぇ。

F:…ウ~ン、そうねぇ、確かに普通の「君が代」の解釈では君すなわち君主の「さざれ石の巌となりて苔のむすまで」も続く末永い治世を称えてるわけで、一方の「ラ・マルセイエーズ」はあの通り市民革命の応援歌だから正反対の内容よね…「我等に向け暴君の血まみれの旗が掲げられたぞ(Contre nous de la tyrannie, L’étandard sanglant est levé)」なんてくだりもあるし。それを立て続けに歌うって確かに「カサブランカ」のあのシーンを彷彿させるわ。まあヌクヌクと育って来たお坊ちゃまが卒業までに良くお気づきになりましたこと(笑)。学校のそばで上映会があって良かったわね。

M:何ですかその皮肉は…でも本当に何も深く考えず「〽君が代は千代に八千代に…」に続いて「〽Allons enfants de la Patrie, le jour de gloire et arrivé!(進もうぞ祖国の子らよ、栄えの日は来たれり!)」と長年歌って来たことにいささか恥じ入りましたね…いくら純真な年齢でも。

F:だけど学校自体がカトリックでああいう校風だし、他の生徒さんでもそれに気づくようなひとはいなかったんでしょ、多分。いろんなことに興味津々で、なおかつおヘソの曲がってたアナタみたいなひと以外には。

M:まあ少し上の学生運動の盛んだった頃の在校生には何か動きを見せかけた連中もいたとか。でも式典の国家斉唱なんかまでは考えが及ばなかったんでしょうね、きっと。

F:ねぇ、でも「君が代」の直後に続けて「ラ・マルセイエーズ」なんでしょ。それも「ラインの護り」を「ラ・マルセイエーズ」が押し退けるのと似た流れではあるわね。丸谷才一さんじゃないけど「ラ・マルセイエーズ」も裏声で歌う方が良いのかしら…1989年の革命二百周年の時にはフランス国内でも今更ながら歌詞の内容について議論百出だったそうだし。でも貴方の若い日の気付きはそれとして、「カサブランカ」が申し分ない名作なのは確かね。

M:えぇ、それは勿論。明らかに当時の世界情勢を受けた一種の国策映画ではあるんだけど、良く練られた脚本と適材適所のキャストと水際立った音楽の使い方でその際物的な危うさを脱した不朽の名作となったわけで。

F:そうね、考えたくもないことだけど仮にナチス・ドイツが勝利を収めてたらこれとか「チャップリンの独裁者」は闇に葬らり去られていたでしょうしね。

M:それとまた今さらながら名台詞の宝庫ですね、これは。特にフランス女イヴォンヌ(マドレーヌ・ルボー)とリックのやりとりの

 「昨夜、どこにいたの?(Where were you last night?)」

 「そんな昔のことは覚えちゃいないさ(That’s so long ago, I don’t remember)」

 「今夜、逢ってくれる?(Will I see you tonight?)」 

 「そんな先のことは分からんよ(I never make plans that far ahead)」

 いやぁ実にしびれる名台詞だなぁ、何度か真似したけど。

F:…そうね、昔そっくりのセリフで何度か煙に巻かれたわ。まあ坊やの精一杯の背伸びと見抜いておりましたけど。アナタにはこっちの方がピッタリでしょ?テーブルにやってきたリックにシュトラッサー少佐が

 「君、国籍はどこなのかね?(What is your nationality? )」

 「酔いどれ人ですよ(I’m a Drunkard)」

M:…まったくもう、本当にその昔初めてお逢いした時が

 「世界中の街という街に星の数ほど酒場があるっていうのに、よりによって彼女は俺の店に来たんだ(Of all the Gin joints in all the towns all the world, she walks into mine)」みたいなものだったんでしょうね。

F:あら、そんなことないでしょ。やっぱり

 「これが美しい友情の始まりだな(I think this is the beginning of a beautiful friendship)」だったのよ…。

(Fin)