2004年6月30日。

Féminin:ちょうど二十年なのね、今日で…。

Masculin:…そうですね。とてもそんなに経ったとも思えず、ついこないだのようにも。

F:あの頃は私も父の世話で手が取られてたし、貴方も一段落してから連絡くれたけど、改めてあの日からの来し方を順を追って振り返ってみるのはいかが?間違いなくご自分のターニングポイントになった日だったって。

M:…えぇ、十年前はまだ介護生活の真っ只中だったけど本人を見送ってこの夏でもう九年ですしね。それじゃ思い出すままに二十年前のその日のことを…まず前日の29日、一緒に家のダイニングで夕食を取ってて母が 

 「そうそう、今日は少し血圧が高いって言われたの。この次も高かったら降圧剤を増やそうかって」と。その日は銀座のかかりつけ医に出かけてたんで。

F:もう八十代でらしたのよね。でも変わらずにお綺麗で凛としてらして…あんな風に私もなりたいなぁってずっと憧れだったわお母様は。お一人で銀座だけでなく普通にあちこち出かけてらして、お医者様は一週置きで美容院は毎週いらしてたんでしょ?

M:銀座の店を閉めたのが’91年の暮でしたけど、その後も習慣は変わらずで…七十代の半ばから膝の痛みを気にするようになり、あまり遠くへは出かけなくなってましたけど。それでその夕食時のやりとりは特に気にも止めなかったんですけど後になってみればやっぱり予兆だったのかも…翌朝10時過ぎ。僕は三階の自分の部屋で松井秀喜のいるNYヤンキースの試合を観てたんですけど、二階の母の部屋から気になる不審な物音が。

F:貴方のお部屋って防音対策がしてあったから、あんまり階下の物音って聞こえなかったんでしょ?

M:そうですね。その物音自体もそれほど大きかったわけじゃないけど、まあ何か胸騒ぎがしてすぐに降りて行ったんです。そしたら鏡台の前で左半身を下にした妙な姿勢で突っ伏していて…どうしたのと聞いたら、急に左半身に力が入らなくなっちゃったのと言うんで即座にこれは脳卒中だなと思い、すぐ母の部屋の電話で119番しました。

F:本当に冷静かつ素早かったのね。お母様がご自分で異変を感じられて5分と経ってなかったくらいかしら。

M:いや3分でしょう。それでとにかく既に動かなくなりかかってる左半身を支えて抱えながら階段を降ろし玄関に座らせて落ち着け、その間に身の回りの品や保険証や診察券をまとめて救急車の到着を待ちました。

F:S路加国際病院は以前から受診してらしたのよね。それにお家のすぐ目の前だし、本当に最短時間で搬送出来たのね。

M:だから異変から病院到着まで15〜20分てところでしょうね。およそ考えられる限りの最善の措置だったと思ってはいます。

F:まあしばしばあったみたいにアナタが二日酔いでお寝坊してたらお母様の異変にすぐ気づけなかったんでしょうしね。やっぱり虫の報せがあったってことなのかしら。

M:混ぜっ返さないで下さいませ。それでCT検査で脳梗塞の確定診断が出てしばらくはERにいて点滴を始め、午後遅くには病棟に。左片麻痺はありましたけど比較的軽いようで、夕食は通常食が出ましたから。さすがに本人は食欲なんか無くて牛乳だけ口にしてました。

F:その時点ではお話しも普通に出来たの?

M:えぇ、左片麻痺の場合は言語や嚥下にさほど影響がない場合が大半で。利き腕も無事だったから、まあ不幸中の幸いでした…とは言えまだまだ苦難の始まりだったんですけどね。神経内科の主治医もいち早く来てくれたんで三月ほど前にミスター長嶋茂雄氏が倒れた時の報道で知ってたt−PA(血栓溶解剤)は使えないのか問い合わせたんですけど、母の場合は出血傾向が強いので残念ながら不適格だと。またその日の担当ナースがどうも見覚えがあるなと思ったら2〜3年前に近所のSらしなの里ってお蕎麦屋でバイトしてたコで、向こうも覚えててくれて何となく安心しましたね。そこのお蕎麦屋のバイトは代々S路加看護大(当時)御用達だったんです。

F:そういう時って誰かしら知ってるひとがいてくれると安心なのよね。お母様ももう落ち着いてらしたんでしょ。

M:ところが落ち着きを取り戻すと途端にあれやこれや言い出して。まず美容院をキャンセルしてちょうだいから始まって、その帰りに毎週立ち寄るМ坂屋地下のホテルOークラの売場に注文している全粒粉食パンのキャンセルと週3回のМ治の牛乳配達も…それから前日行ったかかりつけ医に電話して処方薬の種類を聞き、あとは何を言いつかったかなぁ…全部分かってるから大丈夫、大人しくしててよってなだめるので精一杯で。まあ頭の働きは問題なしだなと少しホッとはしましたけど。それからご存知のようにボクはまだ携帯を持ってなかったんで、急いで近くのdocomoショップに向かいました。

F:そうだったわ、アナタって携帯嫌いで私がいくら勧めてもイヤだって。持つ必要が生じたら持ちます…それは母の身に何かあった時でしょうねって言ってたらまさかの…。

M:予感があったわけじゃないけど念頭にはあったんですよね。それでショップへは行きましたけど、考えてみれば病院と家の往復ばかりで5分とタイムラグはないんだからとりあえず購入は延期で。そうこうするうち日も傾く頃になってふとボクは前の晩の夕食から何も口にしてないことに気づいて。

F:救急搬送してから一息つく間もなかったんでしょうからね。もう蒸し暑い時季だったから水分は取っていたんでしょうけど。

M:病棟のエレベーターホールやロビーにに沢山自販機がある理由が分かりましたね。それからS路加タワー1Fのイタリアンに飛び込み、生ビールと赤ワイン一本でアンティパストとセコンドを流し込みました。

F:…もうホントに。お母様が倒れて一応落ち着いた状態でらしたとしても、すぐさまアルコール補給をするなんて。まあ食事込みで燃料だから仕方ないけど。

M:また病室に戻って本人が眠くなるまで付き添い、日付の変わる頃に今度は近所の行きつけのバーへと向かいました。ただしそれもそこの常連にS路加の関係者がいたんで、無差額個室へなるべく早く移れるように頼むつもりで。

F:まあお家に戻ってもどうせ呑んじゃうんでしょうしね。目と鼻の距離なんだから同じことかも。でも建前では酒気を帯びてのお見舞いはご遠慮くださいって。

M:…だからリハビリ病院に転院するまでの一月弱は連日家と病院とバーの三角形をグルグル回ってたようなもので…と、ここまでが恐らく人生で最もハードだった一ヶ月、さらには丸十一年に及んだシングル介護の日々のはじまりの一日で…。

F:そして日付も月も改まった7月1日。二日酔い気味でお母様の病室に出向いたのね。

M:いちいちトゲがあるなあ、二昔も前のことで。まあその程度の二日酔いは毎日のことでしたから。ところが午後になり、それまで普通に話していた母の呂律が急に怪しくなったんです。すぐナースコールをして医師も飛んで来て。

F:脳梗塞の症状が進んだのかしら?

M:えぇ、まあしばしばあることのようで。それまで90度ギャッジアップだったのがフラットになり、栄養も経鼻チューブに…でも意識は清明でしたから。十日ほどはその状態で。

F:意識がはっきりしてらしてそういう状態はお辛いでしょうね。

M:でもそのチューブが取れた日、病室に行ってベッドの上の晴れ晴れとした表情の母を見た時のことは忘れませんね…またその日の担当がそのバイト先の蕎麦屋さん以来顔見知りのナースだったから。もちろん苦難の日々は始まったばかりだったんだけど。

F:でもお口から食べものが召し上がれるのは大違いだわ…そうそう、その間に貴方の唯一無二のディーヴァのテレサ・ベルガンサのリサイタルがあったでしょ。確かフェアウェルコンサートって銘打って。

M:そうだったんです。’80年代から皆勤でサイン会にもご一緒しましたよね。7月6日に初台オペラシティでしたけど、最初は諦めるつもりだったんです。ところが母も二度ほど一緒に聴いていて「素敵なひとねぇ」と言ってて「大丈夫だから行ってらっしゃい」って…まだ鼻からチューブが入ってたのに。病室から直行してアンコール最後の「カルメン〜ハバネラ」を歌い終えたベルガンサが大喝采に目頭を押さえたのを見届けてホール真下のパブでビール二三杯ひっかけただけで直帰しました。

F:私思ってたの、お母様って少しベルガンサに似てらしたなあって…でも聴けて良かったわ。ベルガンサも三年前に亡くなったけど。それで今度はリハビリ病院への転院でしょ?もうその頃は早期離床、早期集中リハビリって考えだったから…大体ひと月が目処なのね。

M:その通りです。主治医に呼ばれてその打診をされたんですけど、それともう一つ、気がかりなことを。

F:あら、何かしら。

M:CT検査の画像を見ると、梗塞部分の大きさとは別に脳全体の萎縮がかなり進んでいるとの所見で…アルツハイマーのかなり進行した状態に近いと。だから先の見通しはあまり明るくはないと。

F:…だってお母様はそれまで何も問題なく生活してらしたんでしょ?お話しも外出もその他すべてを。

M:えぇ、年齢相応のちょっとした物忘れくらいはありましたけど…その危惧は一年以上経ってから的中したんですけどね。それから今後は車椅子生活が避けられないと…まあとにかく前に進まなければならないからリハビリ病院選びにかかったんですけど、当時はまだ都心近くにほとんど無かったんですよ。その少し前に長嶋茂雄氏が転院した初台リハビリ病院と東向島の東京都リハビリ病院ぐらいで。当時の初台の院長は人口の多い都心部にこそ専門的なリハビリ病院が必要だと力説してらしたけど。しかも状態が落ち着いたら一日も早くってことで、S路加から当たって貰った埼玉の戸田と三郷の二か所を見学に行き、早く受け入れ可能の返事のあった方にと思ってたら先に戸田から返事があったんでそちらに…倒れてからちょうど4週間目の7月28日でした。手配した介護タクシーに同乗して。

F:他にもいろいろ雑用があったでしょうし、そこまでの諸々を全部貴方一人でこなしたのね…しかもあの年の7月って記録的な猛暑じゃなかったかしら…もっとも最近は毎年そうだけど。

M:7月20日には東京での観測史上1位の39.5℃を記録しましたからね。それで本人を移した戸田からの帰り道の埼京線有楽町線の中で、この時間帯に何かあったら心配と思い再びdocomoショップに飛び込み、一番安いのをくれと言って初ケータイを買いました。

F:…うん、覚えてるわそれ。P社の「恋するケータイ」ってコピーのカワイイピンクのだったわね、アナタにお似合いの(笑)。

M:妙なこと覚えてるんだから…他の色はって聞いたらもっとどぎついピンクのを持って来たんで、最初ので我慢しました…とまあ、転院で一区切りだったんですけど、その近所の行きつけのバーが突然7月一杯で閉めることになったんです。

F:何度かご一緒したわね。やっぱりD通がいなくなったのが痛手だったのかしら。またアナタにとっては大切なオアシスだったのに。

M:ところが良くしたもので戸田のリハビリ病院のすぐそばに開店したばかりのバーを見つけたんですよ。早速飛び込み「三ヶ月常連にさせてくれぇ」と頼み、その言葉通り三ヶ月で五十回ほど立ち寄りました。

F:行く先々でバーを見つけるなんて、ちょっとした才能ね。

M:まあ転院してからも極力毎日顔を見せるのが当然と思ってましたから行ってましたけど、8月1日の日曜に初めて休みを貰ったんですよ…確か荒川の花火大会で駅も大混雑すると聞いて。ところがさすがに溜まった疲れが一気に出て、夕方までベッドから動けませんでした…特大の二日酔い以外であんなことは初めてでしたね…というわけで二ヶ月目以降はまた改めて。

(承前)