アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの命日に〜"Grazie mille, Maestro!"

Masculin:というわけで没後29年ですね。

Féminin:もうそんなに…でも今年はポリーニも亡くなったし、それくらい経ってても不思議じゃないのね…そう言えばミケランジェリポリーニって同じお誕生日だったのね、1月5日。

M:僕は’92年の最後の来日のこれまた変更になった最後のリサイタルを聴けたけど…。

F:そうよ自分だけ、どうして声をかけてくれなかったの?

M:いやだってあの頃お姉様はあの方と暮らしてもう5年目ほどだったでしょ。やっぱり何となく…。

F:あらコンサートの会場なんかで会っても普通にお話ししてたじゃない。それにあの人も以前からの私と貴方のことは知ってて、信頼のおけそうな人だねって言ってたのよ…そもそも束縛し合う関係でもなかったし。彼はあんまりミケランジェリには興味が無かったんで…焼け木杭に火がつくのが怖かったのかしら?

M:何をおっしゃいますやら…そもそも’80年の来日ですっぽかされたんでしたね、お姉様は。

F:うん、そう。ほら例によってウチの父は’65年の初来日を聴いていて、母と私にずっとミケランジェリは聴くべきだよ、あんな玄妙な音色のピアニストはちょっといないぞって。ところが’73年は都合がつかず、その’80年はほとんどキャンセルで招聘元がピアノを差し押さえたのよね。それで来日も途絶えて。

M:そもそも初来日のときも招聘元は突然キャンセルするかも分からないからいつ聴くの、今でしょとか言ってチケットを売りさばいたんだとか。二度目は指のコンディション不良で関西公演を弾かずに帰り、招聘元が交渉して半年後に再来日して。その時は京都で美味しい料理を堪能してご機嫌が良かったのか、珍しくインタビューに応じたんですよね、今はなきレコード芸術の。

F:うん、その記事は覚えてるわ。キャメルのレザーのカバーオールに朱色のハイネックのインナーの出で立ちで。内容もインタビュワーが尊敬するピアニストはホロヴィッツリヒテルとマエストロの三人ですと言ったらミケランジェリ

「そう、リヒテルは貴方の言う通り素晴らしいピアニストだ。だがホロヴィッツはどうかね…まあアメリカ人には驚異だったんだろう」ってずいぶん皮肉なコメントで。後はもっぱら禅問答みたいなやりとりだったけど。

M:その後たまたまホロヴィッツに関する記事を読んでて面白い記述に出くわしたんですよ。ホロヴィッツが近しい人に

 「君はミケランジェリを聴いたことがあるかね?」

 「レコードなら。」

 しばしの沈黙の後にホロヴィッツ

 「あいつは少しオカシイんじゃないか?」とつぶやいたと。

F:ふ~ん、それってやっぱり近親憎悪みたいなものだったのかしら…。

M:またリヒテルミケランジェリについて

「完璧な技巧。だが彼は一体何を表現したいのだろう」と評していたとか。いずれにせよ巨匠たちの境地に我々ごときが辿り着けるはずもないんで。それで’92年の日本最後のリサイタルですけど、あの時はチェリビダッケミュンヘン・フィルに同行が急に決まりシューマンの協奏曲を弾き、その後で昭和女子大学人見記念講堂でリサイタルが三回企画されて。

F:一度目は予定通り弾いたんでしょ。ところがその後…。

M:えぇ、招聘元の梶本音楽事務所からのインフォメーションでは、演奏家の求める聴衆とのコミュニケーションが十分に得られなかったので、残り二回は日を改めてサントリーホールで開くと。

F:…まあミケランジェリ以外の人でも同じような理由でキャンセルしたり会場の変更を要求したりはしばしばでしたものね。それで駆けつけたんでしょ、ワタシのことは放っといて。

M:またもう…えぇ、平日の真っ昼間だったから泡食いましたけど何とか。ただ客席はさすがに五〜六割程度の入りでした。でも演奏はやはり聴いて良かったと痛感するものでしたね。昭和女子大で弾いた一回目は少しネガティヴな批評があったんで。

F:前半はショパンと後半はドビュッシー前奏曲集第一巻だったわね。アナタとしてはやっぱりドビュッシーがお目当てだったんでしょ。

M:えぇ、ショパン特に葬送ソナタは正直良く分からなかった…隣席の老婦人は葬送行進曲でしゃくりあげてましたけど、ドビュッシーは期待に違わぬ演奏でした…ただし、我々が受け止めていた完全主義者ミケランジェリとしてではなく。

F:確か’88年だったかしら、ボルドーで演奏中に心臓発作を起こして緊急手術を受けたとか。それ以降は少〜し完璧さに陰りが見えたなんて…ちょうど初来日のホロヴィッツ吉田秀和先生が「ひび割れた骨董品」ておっしゃったみたいにね。

M:そう、僕も葬送ソナタでは同じような感想を抱いたんです。だから後半のドビュッシーはいささかの不安なきにしもあらずだったんですけど、杞憂でしたね。確かに技巧的な完璧さはやや後退していたかもですけど圧倒的な演奏でした。

F:ほらドイツ・グラモフォンの録音だと、一音一音が減衰し空間に溶解して消え去るまでじっと耳を澄まさずにはおけないような気配でしょ。あと同じ頃にパリの教会で撮った映像もあって、全く同じ演奏じゃないかって思うほどだったけど現場でも同じだったの?

M:いやそれがおそらく病気の影響でしょうけど決して完璧無類というほどではなかったと思います。映像からも十数年経ってましたし。でもこれも秀和先生に昔アルゲリッチが話したと。

 「ミケランジェリってひとはおよそ完璧なところまで行かないと弾かないひとだけど、それが彼の弱点じゃないのかしら…つまりどの曲もいつもどこでも同じようにしか弾かないことになるんだから」ってね。だから完璧さが薄れてより広い表現の幅を得たとでも言うか。「デルフォイ舞姫たち」の神秘ぶらないリアルな開始から「音と香りは夕辺の大気を漂う」のまさに香りそのものの響きに「アナカプリの丘」の闊達と「雪の上の足跡」の陰鬱の対比。「西風の見たもの」の豪壮もだけど「沈める寺」冒頭の煌めきと中間のはるかなソノリティは他の誰からも聴けないと思いましたね。またサントリーホールであれほどピアノが豪放かつ音楽的に鳴り響いたのを聴いたことも…あの晩の演奏についてあまり伝わってないのが残念です。

F:ふ~ん、そう聞くと今さらながら誘ってくれなかったのをお憾み申し上げますわ。それで終演後のミケランジェリ先生のご様子は?ほら初来日の時はなかなか拍手が止まないから仏頂面のまま両手で制してさっさと引き上げたってウチの父からも聞いてたんだけど。

M:いやそれが意外なほど上機嫌でらしたんですよ。口元に微かな笑みを浮かべ、半数もいないステージ向こうのP席の聴衆にも軽く右手を上げ応えて…やっぱりP席は学生が多いなんて知ってたんでしょうね。最後は手首のあたりを指してもうそろそろのジェスチャーで満足気にゆっくりとした足取りで引き上げました…ご本人としても会心の出来だったんでしょう。その後ホールから裏手に回り、ホテルオークラの方を目指したら楽屋口に着けられたブルーのボルボのリムジンにミケランジェリが乗り込むところに出くわし…何故か助手席に乗ったんですけど直前に「グラーツィエ・ミッレ、マエストロ!」と叫ぼうとして自重しました。すぐにオークラで主を下ろしたらしく、ボルボは取って返して来ました。

F:アナタがイタリア語で叫んだらステージと同じように笑みを返してくれたか、それとも無視されたか…ほら最晩年にルガーノで散歩中のアシュケナージがばったりミケランジェリと出逢って、最敬礼したら無視されたって…でも亡くなった後に未亡人からアシュケナージへの伝言で、あの時は主人も悔いていたのよって…彼にきちんと対応すべきだったと話してたわって。’55年のショパンコンクールアシュケナージが2位なのに反発して、それ以降審査員を受けなかったミケランジェリなのに。

M:それで残り一回は開演15分前に「今日は弾けん!」と言ってドタキャンで…だから僕の聴いた日が本当に日本でのラストコンサートだったんですよ。翌年も今度は前奏曲集第二巻がメインでの来日が発表され、またチケットを押さえてたんですけど今度は早々に中止で。

F:梶本音楽事務所から直接電話があったんでしょ。今じゃ考えられないしその頃でも珍しいわね。

M:ボクも電話口で思わず「あぁ、やっぱり」と言っちゃったんですよ。そしたら先方が「…何かでご存知でしたか?」と云うんで「いや、まああの人ですしね」と。それで次回はと聞いたらいえウチではもうとの答えで。

F:だからアナタはラッキーだったのね、ミケランジェリの日本で最後に本領を発揮した場に居合わせて…ねぇ、伊丹十三さんの「小説より奇なり」て本にイタリアでミケランジェリの自宅に寄宿して師事したピアニストのK.Y.さんのお話があったでしょう。あそこでのミケランジェリがお弟子さんたちにお料理の腕を振るうエピソードが傑作だったわね。

M:そうでしたねぇ、パスタを茹でるにもお腹が空いてる時はアル・デンテより固めで仕上げて、それほどでもない時は柔らかめで。それで「固いのは胃に悪い」かと思うと「柔らかいのは最悪だ」とその時によって学説が変わるって…本職ほど厳格じゃなかったみたいで。

F:それで味見なんかはご自分でしないでお弟子さんにさせて、何か足りないなんて言おうものならたちどころにご機嫌が悪くなるとか。またお弟子さんたちが食べてる様子をつぶさに観察して「食いしん坊だなぁ」って冷やかしてたって。

M:仔牛のアローストのリチェッタは参考になりましたね。開いた仔牛の肩ロース肉にローズマリーとニンニクを射込み、新ジャガを周りに並べてオーヴンに入れる…特注の椅子に腰掛けてオーヴンを覗き込み、時折レードルでブロードを仔牛と新ジャガにかけ回してるミケランジェリの姿がまた想像するだけでも可笑しくもあり微笑ましくもあり。

F:でも演奏中の真摯な態度に通じるものだったのは確かね。ほら、’73年の来日時に放送用録音を収録したT.H.さんが面白いエピソードを書いてらしたでしょう。東京文化会館で録音嫌いのご本人と直接顔を合わせたら殺されるぞなんて冗談を言いながらスタッフ一同かくれんぼするように何とかセッティングを終えて、開演が迫ったところでお手洗いに行ったらそこでミケランジェリとバッタリ…。

M:何故かミケランジェリもギョッとしてたとか。それでも手を洗いながら 

 「…あぁ、キミはラジオ・マンかね?」

 「ハ、ハイ」

 「私はもう準備万端だが、キミたちは大丈夫なのかね?」と気遣ってくれたと…奇人変人みたいに言われていたけど、本当は音楽にひたすら虚心坦懐に立ち向かってる人なんだと確信したと。それを聞いて僕も一部でミケランジェリをペテン師呼ばわりした半可通もいましたけどとんでもない話であって、真摯に音楽に向き合うが故に結果キャンセルやらの奇行が生じてしまっただけなんだと納得しましたね…あの日本での最後のコンサートの想い出とともに。

F:そうね、ほらその’74年のインタビューの最後にお琴のミニチュアをプレゼントされて、愛おしそうに触れながら

「いつか本物の琴を弾いてみたいものだなあ…」ってつぶやいたって。どのエピソードにも共通の冷徹な完全主義者の仮面の下の素顔が垣間見えた瞬間だったのね、きっと…。

(Fin)