手塚治虫と私〜竹内オサム「手塚治虫語辞典」を読んで。

 …などと巨匠と一読者に過ぎない当方ごときを並べるような不遜極まるタイトルではあるが、本書にざっと目を通し、幼い日からの巨匠との関わりが走馬灯のように蘇ったのである。まあしばしお付き合い下さい。

 その前に誰もが忘れもしない’89年2月9日。激動の昭和が終わりを遂げてからまだ一月ほどのその日。我々は再びの悲報に接したのだった…巨匠のあまりにも早過ぎる訃報に。その日から一気に遠き日へと想い出は駆けめぐったのだが正直な話、最初に接した巨匠の作品が一体何であったか定かではないのである。ただ未だ幼稚園に通い始める前の満3歳くらいの頃、母が買い求めたのか光文社刊ハードカバー版「鉄腕アトム」〜「十字架島」「ブラックルックス」などが既に家にあり、それらを絵本のように親しんでいたから当方の満6歳の誕生日当日の’63年元日にスタートしたアニメ版「鉄腕アトム」には初回から夢中でかじりついていたもので…火曜日の夜6時15分。思えばアトムこそまさに無二の竹馬の友だった。

 それからは「ジャングル大帝」「リボンの騎士」と虫プロ制作のアニメ作品には引き続き親しんでいたが、当方の関心が活字からさらには実写の映画などに移ったこともあり、巨匠のライフワークたるCOM版「火の鳥」などにリアルタイムで接し得なかったのは痛恨の極みで。更に時は流れ、当方の高校時代には虫プロの経営破綻という不幸な事態が起きたものの正直巨匠の作品から興味の離れつつあった身としては対岸の火事でしかなかったのだがそんなある日、放課後の溜り場にしていた学校近くの喫茶店で常連客の誰かが置いていったらしい週刊少年チャンピオン掲載の「ブラック・ジャック」の一エピソード…確か「ダーティ・ジャック」を読み、巨匠への関心が蘇ったのだった。

 その後は虫プロ経営破綻のあおりで流出した単行本も買い集め、’75年の年末には恐らく個人的な債務返済のためだったのだろう銀座Sビル内のT自動車ショールームで開かれたサイン会にも出向き、初めて直接お目にかかりアトムの色紙を頂戴したのだった。「’75.12.20」の日付のあるその色紙は今もわが部屋の壁面にある。

 以来、精力的に発表される新作や新たに立ち上げた手塚プロ制作による新作アニメにも注視していたがそんな’88年の5月。来日中のNYメトロポリタンオペラ「ホフマン物語」の渋谷NHKホールの二階客席で巨匠の姿を再度目撃したのだった。照明の落とされた二階客席でもあり、ベレー帽を脱いだ巨匠がやつれておられたかは定かではなかったが、名作「赤い靴」と同じパウエル&プレスバーガー共同監督の映画版「ホフマン物語」をこよなく愛しておられるのは聞き知っていたのでさもあらんとの思いだった…よもや宿痾とも言うべき病を得ておられるとは知る由もなかったが。

 その数ヶ月後、冒頭に記した突然の巨匠の訃報に接したのだった。実はその一月ほど前、築地の松竹セントラル(旧松竹本社)1Fにあった直営ビデオショップで旧虫プロ制作の実験アニメ「ジャンピング」他を収録したレーザーディスクが在庫セールであるのを目撃していたのだが当日は手元不如意につき諦めていたのを今度は押っ取り刀で出向き入手したのである。

 気がつけば巨匠他界の報せからはや三十有余年。それでも巨匠の作品の輝きはいささかも色褪せるどころかますます混沌の度合いを深めるこの世界においていや増しているように思う。ごく最近、「ブラック・ジャック」のAIとやらの新機軸による新作が発表されたが、本書を読めばまだまだ巨匠本人から学ぶべきは多いと気付くだやろう。ともあれ著者に満腔の敬意を…。

(Fin)