カルロス・クライバーの「ばらの騎士」〜ミュンヘン、ウィーン、東京。

Masculin:…さて、一体どこから話したら良いものやら。

Féminin:そうね、私たち二人のことを含めて。でもクライバーの初来日の時の素晴らしい上演から、来年でもう半世紀だわ…。

M:あの時は僕が行き違いで、お姉様はお友達といらしたんですよね。

F:うん、そう。幼馴染みで同い年の音大声楽科のコに誘われて。貴方は直前のバーンスタインブーレーズのNYフィルとかぶったとか…。

M:えぇ、手違いで全公演のチケットを一手に引き受けざるを得なくなり、高校生のフトコロにはこたえてバイエルン国立歌劇場の公演は見送りで。まあ二十年後にウィーン国立歌劇場ので取り戻しましたけど。ちなみに’74年のNYフィルのS席は¥7,000で「ばら〜」は¥13,000、’94年は¥65,000でしたね。二十年で五倍です。

F:私はその’94年は行けなかったし…でも’74年は最初は気が進まなかったの。ほらR.シュトラウスって「サロメ」や「エレクトラ」のイメージが強かったから、その時のプロなら「フィガロの結婚」か「ドン・ジョヴァンニ」の方が良いなあなんて。でもせっかくなんだし食わず嫌いは勿体無いぞって父が持ってたカラヤン盤を聴かせてくれたし、幼馴染みも「フィガロ」みたいに愉しいオペラよって勧めるんで一緒に出かけたの、東京文化会館に。

M:まだまだ純情な女子大学生だったんですねえ、噂では群がる同窓の軽薄な男どもを歯牙にもかけないものだから「飛び切り綺麗だけど煮ても焼いても食えない丹頂鶴」なんてあだ名されてて。

F:あら、その私に学園祭で高校生のくせに無謀にも声をかけたのはどなただったかしら?なんてナマイキな子だろうって…まあ志有りげには思えたんだけど。

M:ハッハ、もう半世紀昔の蛮勇でしたね。でも我々のなれ初めはさておき、それでお姉様はいっぺんに虜で、クライバーの。

F:ホントにそうだったわ。ほら長身だから文化会館のピットからも指揮姿が良く視えて、その華麗で雄弁なことと言ったら…。一緒に行った幼馴染みのコも

「もしワタシが舞台に立ってたら、見惚れてポーっとしちゃって入りを間違えない自信は全然無いわぁ…」なんて言ってたの。妙な自信ね(笑)。それで終わった時はもう夢心地。最後の三重唱でオクタヴィアンが"Marie Theres’!"と呼びかけてマルシャリンがファーニナルに"Ja,ja."と応じるまでは本当に夢なら覚めないでちょうだいって思ったわ…。

M:それは良く分かりますね。夢心地も勿論だけど「オテロ」でも「ラ・ボエーム」でもステージとクライバーの指揮姿を半々に観てたようなものだったから、我々。

F:ほら、’79年の映像でも同じだけど、第一幕の冒頭は拍手が止まないうちに振り向きざまに開始して、あの時はずいぶんせわしないひとねえ、この指揮者はなんて思ったわ。

M:えぇ、ほら当時ご説明したでしょ。あの序奏はオクタヴィアンの若い情熱とそれを優しく受け止めるマルシャリンを表しているんだけど、ところがオクタヴィアンは若さのあまり暴走して一人でさっさとクライマックスに達してしまうからマルシャリンは密かにご不満の様子で、クライバーの性急な開始とテンポはそれを十全に表現してるんですって…純情な箱入り女子大生にはまだまだ理解出来なかったんでしょうね(笑)。

F:あらまたナマイキ言って…アナタだって口先ばかりで実際は同じだったじゃない、バレてたのよ。それに私だってその後いろんな経験をいたしましたから…他ならぬ貴方とそれからあの人も含めてね。

M:…そうでしたね。ところで後にNHK交響楽団で長く首席ホルンを勤めたM.H.氏が言ってたんですけど、バイエルン国立歌劇場に入ったばかりでクライバーの「ばらの騎士」に出て、開演前の喝采に応えて立ち上がろうとしたら隣の先輩ホルニストに腕を掴まれ「彼はいきなり振り始めるから立たずにすぐ吹けるよう準備してろ」と注意されたと。まあ残された映像を観るとどのオペラの場合でも大体同じだったみたいですけど。

F:でも舞台は本当に半世紀近く経った今でも思い出されるわ…まあ’79年のDVDがあるからだけど。グウィネス・ジョーンズとブリギッテ・ファスベンダーは一緒だったし、観た日はオックス男爵がカール・リッダーブッシュで一番良かったかも。ゾフィーは名前忘れちゃったわ…そうそう、私の行った晩は大丈夫だったけど、爆弾騒ぎで公演が中断した日があったんですって?

M:えぇ、あちこちで物騒な事件が頻発してた頃でしたから…たった一本の電話で出演者もオケも上野公園に大急ぎで避難したとか。まあイタズラだったけど出くわした通行人もびっくりしたでしょうね。

F:貴方のお母様のお店のそばでも騒ぎがあったんでしょ、銀座の。

M:そう、12月の上旬だったか並びにあったT成建設の本社で実際に爆破事件があり、何人か怪我人も出たんですけどそれ絡みで公安警察が母の店に聞き込みに。

F:えぇ、どういうこと?

M:ほらあの時代は百貨店はもちろん個人経営の店でもお中元お歳暮の繁忙期には個別に配達要員のアルバイト学生を何人も採用してて、高校生の僕もそれに混じってたんです。

F:そんな頃は勤労意欲が旺盛だったのね(笑)。

M:何をおっしゃいますやら…誰かさんとのデートの費用を捻出するためだったんですよ。その中にどうやら過激派のメンバーが一人紛れ込んでたらしく警察が持ち帰った履歴書の住所にもいず、大学にも籍が無かったそうです…名前も当然偽名で。

F:ふ~ん、アナタは面識があったの?

M:えぇ、記憶では小柄で大人しそうなフツーの男だったかと。ただし何故かバイト代の受領印を持っていず、たまたま店にいた同じ苗字の女の子のを借りてたとか…短期のバイトですから店の方もさほど気にも止めずで

F:…ふ~ん、その女の子と何かあったんじゃない、アナタ。

M:…何ですか藪から棒に…えぇ、二〜三度食事に誘ったかなぁ、北海道生まれで僕より五つほど上だったかと。翌年寿退職しましたよ…どうしてそう勘が鋭いんですかね、お姉様は。

F:ふふっ、前から時々ポロッとおイタを白状してましたからね。それにしてもこっそりそんな年上キラーだったとは知らなかったわ。知ってたらあの学園祭の時に警戒したのに…。

M:あれ、後悔してらっしゃいます?

F:してませんわよお生憎様。もしかしたら私もマルシャリンの気持ちだったんだから…年下の男の子にかしずかれてるそのことを楽しんでるような…ねぇ、初来日時の記者会見で何かエピソードがあるんですって、クライバーの。

M:そうそう、会見場で総支配人のギュンター・レンネルトと音楽監督ヴォルフガング・サヴァリッシュを中央に歌手陣がずらりと居並ぶ中で、クライバーは端っこの方にポツンと座っていたと。で、どこかの記者が指名したらポッと頬を赤らめておずおずと立ち上がったって。

F:シャイだったのね…指揮台上のあの比類ない姿からは想像出来ないわ。

M:まあおよそ記者会見とかインタビューには無縁な人でしたからね、初来日だから仕方なく出たんでしょうけど。それで質問が「貴方はオペラ指揮者として日本でも有名ですが演奏会も指揮なさるんですか?」と。

F:何て答えたの、カルロス様は。

M:…何ですか今ごろ「様」だなんて…「ハイ、少しはやります…」の一言だけ応えて、質疑応答は終了したと。実はその3〜4月にあの今も極め付きの名盤とされるウィーン・フィルとのベートーヴェンの第5を録音済みだったけど、そんなことはおくびにも出さずに。普通ならこれ幸いと発売の際はよろしくなんて売り込むところでしょうね。

F:ふ~ん、後の来日でも某新聞の編集委員がインタビューを申し込んだらけんもほろろで、会食の席でその委員さんと再会したら「ノーインタビュー?」って念押ししてから機嫌良く日本酒を傾けたそうね。シャイと気難しさが同居してたのかしら…ほら、’94年はその少し前にあの人が旅立って、私は何処にも出かける気になれなかったから残念だったけど貴方は二十年越しだったのよね。その間に「オテロ」「ラ・ボエーム」に演奏会は聴いてるけど。

M:えぇ、まああの年のウィーン国立歌劇場の来日公演はおよそ過去最高の布陣でしたからね…’81年のミラノスカラ座初来日と双璧かと。アバドの「フィガロの結婚」「ボリス・ゴドゥノフ」にシルマーの「こうもり」、その中で何と言ってもクライバーの「ばらの騎士」は目玉だったから。

F:DVDは3月にウィーンで収録したのよね。それも何かまるで日本公演のプローベだったみたいで。

M:ウィーンでは3回、東京では6回でしたからね。しかも意外ですけどクライバー自身もウィーンで「ばら〜」の上演を振ったのは初めてだったわけで。

F:年々指揮台に立つ回数も減ってたから、やっぱり何か期するものがあったのかしら。

M:結局オペラのピットに入ったのはあの東京文化会館が生涯最後で、後は亡くなるまでは演奏会のみでそれも数えるほどですから。だから我々日本のファンは本当に得難い体験をしたんですよ。

F:私が聴けたのは’74年の「ばら〜」と’88年の「ラ・ボエーム」に’86年のベートーヴェンプロの演奏会だけど、貴方は’74年以外皆勤賞だったのよね。

M:そうですねぇ、それでもオペラ3本と演奏会2プロだけですけど本当に生涯の宝ですね…今や遠い想い出になりつつあります。あとは幻に終わった’92年のウィーン・フィル。チケットそれも大阪フェスティバルホールのを電話かけまくって入手したんですけど。

F:でも’79年と’94年の映像を比較すると、そりゃあ第1幕と第2幕のともに前半の勢いはミュンヘンが優るけど深沈とした味わいはやっぱりウィーンの方ね。歌手陣もそれぞれに相応しいひとたちだから比較してとやかく言うのは野暮じゃないかしら。

M:おっしゃるとおりですね。あとオルフェオから出た’73年のライヴもあるけど、思い出すのは柴田南雄氏が書いてらしたことで…。

F:貴方の大先輩の柴田さんが何ておっしゃってたの?

M:ミュンヘン以前のシュツットガルト時代にクライバーの「ばら〜」をご覧になったんですって。そして「ピットから立ち昇る吹き上げるような音型が虹のように色合いを変えるのを聴き、やはり世に天才というものがいるのだと感じ入った」と。

F:それって私たちが文化会館の客席で体験したことそのままじゃない。「ラ・ボエーム」でもそうだったけど、あの奇蹟は映像にも音声にも絶対に収録出来ないと思ったわ。それからオケが個々の楽器の音色すら消し去って、まるで登場人物のひとりみたいにニュアンス豊かに歌うのも。

M:そうでしょ、ただし柴田氏はシュツットガルト時代は初期ロマン派のような柔らかなタッチだったけど、初来日時はやや後期から表現主義的に傾いていて振り方もしつこくなっていたと。また既に噂にもなってた演奏現場でのトラブルにも言及し、ああいった音楽創りは情緒不安定にも繋がるのかと喝破されていましたね。まああの才能だからいずれ行き着くところに行き着くだろうって締めくくってらっしゃいましたけど。

F:やっぱり’94年のはその行き着いた地点だったんでしょうね…ほら’88年の「ラ・ボエーム」の時は貴方と会場でお会いしたけど私はあの人と一緒で、’86年の演奏会は違う日だったからクライバーを客席で並んで聴いたことはなかったのよね、私たち。だから’99年にカナリア諸島まで一緒に行きましょうって言ったのに…遅れ馳せのハネムーンで。クライバーもあの後引退同然だったから最後の機会だったのよ…。

M:またその話ですか。でも最近考えるんですけど、クライバーって指揮者は遂に未完の存在だったんじゃないかと。ほら、全盛期と思われた時期でもオペラもコンサートもあの通り限られた演目と回数のみで。それがやがて終息に向かうがごとしでやがて隠棲生活同然となり、ひっそりと世を去ったんですから。それを最後まで追っかけるなんて、しなかったのが我々にとってもむしろ幸いだったんじゃないかなぁ…最盛期の幾つもの思い出のみをそれぞれの心に刻みつけて。

F:…ふふっ、相変わらずのズルさかと思ったら、今回のアナタの言い分には説得力があるわね。まあその旅行の件も遠い昔のお話になりつつあるから、こうやってマルシャリンとオクタヴィアンのように昔話に花を咲かせる方がしあわせなんでしょうね。それとも第1幕のモノローグのようにひとり過ぎ去った時を偲ぶべきかしら…。

(Fin)