八千草薫さんの誕生日に〜「蝶々夫人」(’54年日・伊)と「ガス人間第一号」(’60年東宝)。

Féminin:今日は八千草薫さんのお誕生日なのね。早いもので亡くなってからももう四年以上。リアルタイムだと私たちもこないだ亡くなった山田太一さんの「岸辺のアルバム」なんかの人妻=母親役のイメージが強かったけど…。

Masculin:ギリギリまでお元気で活躍してらっしゃいましたからねぇ。でも長きにわたって様々な作品に出演してらしたけど、お若い頃の主演作は意外に少なかったんですよね。この二作は代表作じゃないかなぁ。

F:そうね、やっぱり役柄の上でも、いかにもそのイメージのままでらしたから。それだけにこの二作は貴重ね。それじゃあ「蝶々夫人」からいかが?

M:はい、まずはこれの制作当時の’50年代半ば、イタリアではオペラの映画化がちょっとしたブームで。

F:確かソフィア・ローレンの「アイーダ」なんかもあったわね。

M:そう、ただし当時の事情で歌は吹き替えだったからそういう手法はあまり長続きせずに廃れて。それでもこの「蝶々夫人」は同じく歌は吹き替えで映画としての尺を考えカットした部分をナレーションでつなぐって苦肉の策はあるものの、全体としては良い出来ですね、「蝶々夫人」の真っ当な映像化としては。あのJ.P.ポネル演出カラヤン指揮のトンデモ作品に比べるとはるかに。ついでですけどあれはフレーニ、ドミンゴ、ルートヴィヒにカラヤン指揮のウィーン・フィルって’70年代ベストの布陣を揃えながら、ポネルの演出が全てをぶち壊してたから…。

F:長崎沖に富士山があったり「暫」まで現れるんですものね。本当に「不思議の国ニッポン」だわ…それに比べると、これの方は常日頃私たち日本人が「蝶々夫人」の舞台に感じてる違和感がさほど無いのは確かだわ。やっぱり東宝が全面協力したからでしょうね…スタッフも宝塚の現役の皆さんも大挙して渡伊して、セットはローマのチネチッタ撮影所でちゃんとしたのを組んで。

M:また全てにおいて八千草さんの蝶々さんの存在感に尽きると思うんですよ。およそ我々日本人の考える理想の蝶々夫人がスクリーンに生きているが如しで…可憐にして決然としていて。

F:あら、大変な入れ込みようですこと。でも確かにその通りね。「15歳ちょうど(Quindici netti)」の楚々とした蝶々さんから、やがて毅然として自裁する勁さの双方を見事に兼ね備えてらっしゃるわ。あとスズキの田中路子さんがさすがの存在感ね。もともと蝶々さんで評価された方だから、歌が吹き替えなのが勿体ないけど。

M:例によって脱線ですけど、田中路子さんが’62年に一時帰国し歌手としての引退公演をされた時、打ち合わせで関係者の何人かが

「しかしマスコミがうるさいからなぁ…」

「…そう、マスコミが何ていうか」なんてやりとりをしていたら、ついに堪りかねた田中さんが

「ちょっと、マスコミさんてどういう方なの?」と問いかけたんですって…満寿小見さんとかってよっぽど影響力の強い人間が現れたのかと思って。

F:…ハイハイ、その話は伊丹十三さんの「ヨーロッパ退屈日記」で読んだわ、昔ね。茶々を入れるならもうちょっと新鮮なネタでお願いしますわ(笑)。

M:…それじゃあ’70年代後半にホンダとヤマハの間で「HY戦争」と呼ばれた女性向け小型バイクの熾烈な販売合戦が勃発し、それぞれがCMに起用したのがローレンと八千草さんだったんですよ。

F:うん、それも覚えてるわ。実はどっちかを買おうかなって考えてたの、当時。普段のちょっとした買い物の足に。

M:へぇ、初耳ですね。およそ似合わないなぁ、エレガントなお姉様には。

F:…似合わないかはともかく、父にもヤメロって強く言われて…お前がバイクに乗るなんて社会の不安をいや増すだけだからって(笑)。何によらずあんなに強く反対されたのはあの時だけ…家を出た時も含めてね。でもソフィアの決めゼリフは「ラッタッタ、カピート!」八千草さんのは「やさしいから、好きです」だったわね。

M:社会不安より、やっぱり一人娘の身の安全を心配してらしたんでしょ、お父様は…ところで当時の宣伝担当者は確実にこれらのオペラ映画を観てたんでしょうね、まさか「アイーダ蝶々夫人」だなんて…ハッハ、東宝でもそれじゃあ特撮だなぁ…おっと。

F:ハイハイ、上手くつながったから本筋に戻りましょ。「ガス人間第一号」は映画館で観たの、貴方。

M:いや、「モスラ」以降の東宝特撮作品は皆勤でしたけど、これはその前年だったんです…まだ3歳だったし。だから実際に観たのはオンエアで’70年代ですね。母が観てたらどんな感想を抱いたか…。

F:作品の設定なんかむしろお母様が興味をお持ちになりそうだったのにね…でもこれの八千草さんの美しさはもう神々しいばかりね。踊りの場面の所作も申し分ないし。タイトルロールは土屋嘉男さんでトップクレジットは三橋達也さんだけど、事実上の主演は何と言っても八千草さんだわ。

M:三橋達也狂言回しに終始して少し気の毒ですね。佐多契子は八千草さんのカウンターバランスとして十分だけど老鼓師の左卜全のシリアスな演技は特筆ものですね。怪優のイメージの強かった人だけど面目一新で。

F:土屋嘉男さんて黒澤明監督の信頼も厚かったんでしょ。良く「おい、特撮なんかに出るなよ」って釘を刺されていて、それでも黒澤監督とは盟友だった本多猪四郎監督の現場ですって言うと「ウ~ン、まぁイノさんのとこなら仕方ないか…」とお許しが出たとか。

M:そう言えば何年頃か、黒澤監督が突然「僕も特撮を一本撮ってみようかなぁ…」と言い出したことがあったとか。

F:へぇ〜、一体制作費が幾らかかるのか想像もつかないわ…。

M:伝え聞いた「ゴジラ」の生みの親の田中友幸プロデューサーも同じことを考え真っ青になったとか…その土屋嘉男のガス人間水野の造形も見事だと思うんですよ。常に翳りある表情を崩さずそれでいて途方もない力を手にした尊大さも併せ持ち、ほら他者によって異形たらしめられた者の愛と苦しみって一ジャンルの決定的な名演ですね…あとはスティーヴン・キング原作「デッドゾーン」のクリストファー・ウォーケンかなぁ。

F:異形の一途な愛ってド・ヴィルヌーヴ夫人「美女と野獣」以来のテーマだけど、こういう形で女性が自ら決断を下すってあまり無い結末ね。まあ落魄した日本舞踊春日流再興って目的が藤千代にはあったとしても、結果的に水野の犯した凶悪犯罪に加担したわけだから、当然の決断かもしれないけど…日本女性としてはね。その誇りを貫いた点が蝶々さんと藤千代の共通点だし、八千草さん以外のどなたにも出来なかった役と思うわ…可憐さに隠された比類ない芯の強さをお持ちの。

M:そのことこそが、この作品が海外で評価された大きな要因だと思いますね。また本多猪四郎監督としても代表作じゃないかなぁ、怪獣に寄りかからない作品として。あとは「妖星ゴラス」ですね。

(承前)