チーズフォンデュは本当に胃の中で固まるのでありましょうか?

Masculin:三寒四温の言葉通りのような今日この頃ですね。

Féminin:なぁに、まるで公共放送のキャスターみたいな口調で。紋切り型は嫌いって若い頃からおっしゃってたのはどなただったかしら?

M:…そりゃあ時候のあいさつなんてのはすなわち紋切り型ですけど、むしろ珍奇なことを口走って関心を惹くようなのはお姉様だって昔からお好きじゃなかったでしょ?群がる軽佻浮薄な連中を歯牙にもかけなかったんだから。

F:まぁ確かにね。そんなやり方でしか関心を惹くことができないなんて、所詮は薄っぺらいひとですもの。ところで思い出していたの。もう大昔だけど、ちょうど今頃の春先に初めてチーズフォンデュを一緒に食べたんじゃなかったかしら。お互いまだ学生の頃、銀座のどこかで。

M:あぁ、そうでしたねぇ。あれは並木通りの八丁目に今もある中島商事ビルの2階にあったМ治チーズサロン、М治乳業直営の。

F:(笑)相変わらず無駄に優秀な記憶力ですこと。それをもっと他のことに役立ててたら…。

M:またそれを…「歩く備忘録」だから助かるわなんて軽い皮肉ならまだしも。ほら、あれ以前にも四谷の左門町にあったSシャレーで知ってたんですよ、チーズフォンデュは。

F:あら、私もあそこは出来たばかりに出かけたわ、父と一緒にお呼ばれで高校の頃。確か大阪の料亭のお嬢さんがオーナーでらしたのよね。でもその時はフォンデュ・ブルギニョン(オイルフォンデュ)の方が印象に残ってるけど。

M:あそこもその後新宿の高層ビルから麻布十番に移って。あと六本木の俳優座の並びにあった東京Sインも東麻布でやってるとか。でも半世紀以上も前の都心にチーズフォンデュを出すスイス料理店が三軒もあって、しかも個人経営の二店が今も健在なんだから、戦後ある時期までのわが国は永世中立国への憧れが強かったんですかね。

F:大国の傘の下でなく、自前の強力な軍隊で平和を守ってる永世中立国なのよね、スイスは…それが鳩時計しか生み出していないかは判らないけど。あとひとつ鍋を一緒につつくのが日本人にウケたんでしょうね。それはともかくチーズフォンデュはお家でも作ってるんでしょ、以前から。

M:えぇ、昔オイルフォンデュ用の銅鍋セットを貰ったんでチーズ用の土鍋だけ買い足して。まぁもともと家庭料理みたいなものだし何も難しくはないですよ。鍋底にニンニクの切り口をこすりつけ、辛口の白ワインを煮切って刻むかシュレッドしたグリュイエールとエメンタールを半々に入れ煮溶かし、キルシュワッサーで溶いたコーンスターチでつないで黒胡椒をガリガリと挽き一方に皮を残した一口大のバゲットをからめて食べる、それだけですから。チーズの割合や種類は好みですけど、これが基本かつベストと思います。バゲットの代わりに好みの野菜でバーニャ・カウダみたいにも。鍋底にこびりついたチーズをこそげないよう気をつけて、最後にタルトみたいになったお焦げがお愉しみで。ただし食後の換気は大切ですね、チーズ好きでは人後に落ちないワタクシでも。

F:身体を悪くする前は常時十種類前後のナチュラルチーズを冷蔵庫に常備してたんですものね。キルシュワッサーは製菓用で良いんでしょうけどアナタのことだからやっぱり呑んで美味しいのを使うんでしょう。ほら、伊丹十三さんも書いてらしたけど、チーズフォンデュを鱈腹食べて冷たいビールをがぶ呑みしたアメリカ人が、胃の中でチーズが一塊りに固まって大変な苦しみで七転八倒しながら亡くなったとか…ホントの話なのかしら…。

M:いかにも起こりそうなケースですけど眉唾だなぁ、よっぽど大量のチーズとビールを肚に収めないとまさかそんなことにまでは。かなり前にSントリーが広報記事でまったく心配ありませんと躍起になって否定してました。落語の「そば清」や「エイリアン」第一作みたいな食べ物にまつわる怪奇譚の一つなんでしょ。

F:伊丹さんてある時期まではかなりのアメリカ嫌いでらしたのよね…「モナ・リザ」を観て"But ,it’s so small!"とか、ポンペイの遺跡を見て「こりゃまた徹底的に爆撃されたものだな」と叫んだとか、マルセル・マルソーのパントマイムを客席でいちいち声に出して説明したとかみんなアメリカ人の呆れるような話をエッセイで。

M:近所の英会話ならぬ米会話教室を冷やかしたら講師として自分の名もまともに発音出来ない男が出て来たなんてのもね…まぁさっきの永世中立国の話じゃないけど、アメリカの傘の下で暮らしてる’60年代の日本人インテリのアンビヴァレントな気持ちの表れで。

F:ねぇ、そう言えばその初めてチーズフォンデュを一緒に食べた時、アナタからパンを鍋の中に落としたら罰ゲームで女性は男性とキス、男性は一気呑みって教わって私が落っことしちゃったらアナタ何て言ったか覚えてる?

M:いや、何て言いましたっけ…。

F:「キスはもう結構です、ワインの方がうれしいなぁ」って…ちょっぴり傷ついたのよ。

M:へへぇ、そんなこと言いましたっけ。あの頃はお互い若かったんですけどねぇ…でもフランスにこんな小噺があるんですよ。

「さるお屋敷のご主人がある晩遅く、酔っ払ってご機嫌で帰宅しました。ところがうっかり塗り替え最中の寝室の壁に手をついてしまい、翌朝仕事にやって来た職人の親方にさっそく奥様が

『ちょっと、夕べ家の主人が寝室で触ったところを見てくださらない?』

 すると親方はもじもじして

『…いやぁせっかくですが奥さん、あっしももういい年ですからワインの一杯でもご馳走になる方がありがたいんで』」

 とまあ、ファルス(艶笑譚)の一席で。

F:ふぅん、昔からどちらかと言うと草食系のアナタだったけど、今やそこまで涸れ果てちゃったの。それじゃあニンニクマシマシのワタクシ流特製チーズフォンデュを用意して、今夜はお待ちしておりますわ!

(Fin)